とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

人間関係と快楽

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


他者としての自分の身体

 


私の身体は感受されるものであり、私が私のものとして制御する私ではなく、私があることと切り離しがたくあり、あることの一部をなしていながら、他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような私があり、私の身体がある。

 


私のもとにあるものが他者として私に現われることが肯定される。私からそうした他者性を消去してしまうことの否定が「私の肯定」と呼ばれるものではないか。

 


私達は私による世界の制御不可能性の上で、何かをしたりしなかったりするのであり、そこでどれほどか私の意のままに私と私の周囲とがなることから確かに快楽を得ているのではあるが、その不可能がすべて可能になった時には、私達にとっての快楽もまた終わるのではないか。

 


立岩は、人が自分の制御・操作しない部分を残そうとするのは、「それは全く単純な理由からで、他者があることは快楽だと考えるからである」と主張する。

 


しかしこれは人身所有権を否定する論拠としては全く不十分なものである。人は確かに自分が制御できない、立岩のいう「他者」が存在することを欲するだろう。

 


しかし自分自身の中に求めるまでもなく、自分以外の人々も、世界の無数の物質も、すでにして「他者」である。

 


全世界が自分にとって制御可能になってしまったら快楽がなくなるなどというのは、杞憂の極みである。

 


世界は自分の自由にならない「他者」で満ちているから、せめて自分の身体くらいは自分の自由にしたいと欲するのが人情であって、たいていの人は自分の身体をコントロールできないことを喜んだりはしない。

 


感想

 


私達は私による世界の制御不可能性の上で、何かをしたりしなかったりするのであり、そこでどれほどか私の意のままに私と私の周囲とがなることから確かに快楽を得ているのではあるが、その不可能がすべて可能になった時には、私達にとっての快楽もまた終わるのではないか。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、人間関係の中で快楽を得ている側面はあると思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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