とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

「距離」がゼロであること

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


「距離」がゼロであること―人間関係形成の不可能点

 


ジンメルがもち出すアイデアは、「秘密」(をもつ/もたれる)というだれもが経験する事態を手がかりにしてこの「距離」の問題を詰めて考えるという方法だ。

 


それはまず第一に私たちが「秘密」に対してもっている一般的理解に疑問符をつけることからはじまる。

 


すなわち「秘密」とは、コミュニケーションの遮断や拒絶を意味するものではなく(もちろんそういう場合が全くないというわけではないが)、円滑なコミュニケーションもしくは適度な距離にもとづく相互理解には不可欠な社会的形式なのだととらえるところからジンメルは出発する。

 


そのためにはまず手始めに、ほんとうの相互理解、コミュニケーションのあるべきかたちに対する私たちの思い込みを解体することから議論をはじめる必要がある。

 


「他者を知ること」「他者を理解すること」が「制限とわい、曲」を帯びてしまうことの不可避性の指摘から展開される。

 


そこでジンメルはとりあえず次の事実の確認から論じはじめる。つまり、私たちは、何らかのかたちで関わる他者に対しては、「交流と関係が可能となる程度までは、相手が何ものかであるのか、について大体において正確に認知している」

 


距離とは隔たりであることと同時に接近可能性であるとジンメルは理解しており、私たちは出会うと他者に対して何らかの距離設定ができるほどの接近可能性をもちえているからこそ関係の形成が可能になるのである。

 


このことは逆にいうと、どんなに親しい付き合いであっても、他者との間には必ず何らかの「距離」は残るということである。

 


無限大の距離、つまり接近可能性がゼロの場合は関係の形成はもちろん不可能であるが同様に距離がゼロというのも関係の形成が事実上不可能になる地点なのだ。

 


社会学者の見田宗介は、この距離がゼロという極限形態のモデルを、サルトルの「融解集団」に見ている。

 


他者の他者性が融解しゼロになることをサルトルは一種の理想状態とみなし、あるいはわが国でも1970年代に若い世代を中心に盛り上がるコミューン運動(いまもなお続く「ヤマギシ会」はその有力な一つであった)においても、この融解性が最も「よき」集団形成の原理とされた。

 


しかし見田はこの理想主義が、個別的なコミューン運動の挫折ばかりではなく、「20世紀を賭けた「コミュニズム」という巨大な「実験の破綻」をも規定していると考える。

 


感想

 


「秘密」とは、コミュニケーションの遮断や拒絶を意味するものではなく(もちろんそういう場合が全くないというわけではないが)、円滑なコミュニケーションもしくは適度な距離にもとづく相互理解には不可欠な社会的形式なのだととらえるジンメルは、やはりすごいなと思いました。

 


社会学に影響を与えた重要人物であることは間違いない感じがします。

 


常識を疑うことはやはりおもしろいです。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス