こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「他者」との距離をどのようにとればいいのか
そもそも自分以外のほかの人が、自分にとってまさに「他者」であるという事態は、いったいど
のようにとらえられるだろうか――こうした基本的問題からちょっと考えてみたい。
ジンメルに触発された私の考えによれば、他者とはたんに丸ごとすべてを理解できない「非知性」を帯びた存在である以上の何かである。
その何かというわからなさにあえて言葉を与えれば、「私」のことをいわば「私」の許可なく勝手に対象化してしまうような存在であるとでも表現できるだろう。
この点にこそ、他者がまさに「他者性」(=他者であるという本質的な性質)を帯びた存在だということのポイントがある。
「私がいいというまで私のことをわかったといってほしくない」という人のいい方は、自分以外の人間が帯びる他者性に対する恐れを直観した実に本質をついた表現であると同時に、それは他者の「他者性」を認めていないという点で究極的な「甘え」の表現だなと私は思う。
つまり他者としてではなく、いわば「私の分身」のような存在として相手をとらえ、そしてそうした相手に対して「私」の望むようなかたちで「ほんとうの私」をわかってほしいという実現不可能な要請を行なっているように、私には思えたのである。
たしかに、コミュニケーションの相手に「ほんとうの私」をわかってほしいという思いは、大なり小なりだれにでも起こる欲望であるだろう。
しかしそうした思いにとらわれすぎると、かえって他者とのバランスがとれなくなるという危険も潜んでいる。
また、こうした他者への過大な要求が正当化される要因として、次のような世間の常識の根強さ、があるように思う。それはつまり、知り合って間もないころは、よそよそしく距離をとって本心を
明かさないのはしかたがないにしても、だんだん顔見知りになれば、できるだけ何でもさらけだして付き合うべきだという考え方だ。
つまり、他者に開かれた誠実でよい態度とは、できるだけ隠し事などをしないで正直に自分のありのままを提示するような、そういう開放的な態度だというわけだ。
しかし、何の隠し事も秘密もない「ざっくばらんさ」が、人間関係においてほんとうに求められ
ている誠実さなのだろうか?
たとえば、こういうタイプの人はみなさんの身のまわりにはいないだろうか。
「昨日の夜電話したけど、どこにいっていたの? 」
「だれといっしょにいたの?」ということをけっこうしつこく聞いてくるような人。
それが年ごろの娘をもった親だったり付き合ってまもない恋人だったりすればともかく、いわばふつうの友だち(たとえばクラスメートといった)程度の仲でも、そういう感じで聞いてくるような人だ。
また自分に黙って彼氏(あるいは彼女)を作ったということでけっこう頭にきたりする同性の友人の話もよく耳にする。
とくに女性どうしの友人関係が、彼氏を紹介しなかったとか内緒で彼氏を作ったというような理由でうまくいかなくなることがありがちだ(地方の女子大に勤めていたころこういう話を学生から私はよく聞いていた)。
「親しいと思っていたのに、私に黙ってーした」とか「私に内緒で――に行った」とか、かたちで他者を縛ろうとする人は意外に多いような気がする。
そして彼(女)らが抱く親密さのイメージには、「プライベートなことであればあるほど、それを共有することが親しさの証しだ」ということが、暗黙の前提として存在するように思われる。
でもそうした他者への過度の接近の要求が、まさに他者との関係の気まずさを生み出したりもすることに彼(女)らは気づかない。
基本的にこうした問題の根底には、他者との「距離」というものをどのように考えればよいのか
という課題がある。
この場合の距離とは、もちろんたんなる空間的距離ではなく、精神的な意味での距離の取り方を指す。
とはいえ空間的距離あるいは他者と接する際の物理的距離は、実は人間の関係形成にとってかなり大事な側面をもっていることは無視できない(この点については、渋谷昌三「人と人との快適距離」がとても参考になる)。
しかし、結局こうした空間的距離の問題も、それが人間の精神的なあり方に影響を与えているという点ではやはり「心的な問題」の核となっていることが理解されるだろう。
そしてここで重要なのは、他者との距離をゼロにすることではなく、適度な距離を作り出すことだ。
感想
当たり前のように思えますが、他者との心理的距離感は大事だと思いました。
踏み込まれたくないところは誰にでもあるしと思うので。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁