こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
熱意?
『幸福論』の読後感には何かすっきりとしないものがある。釈然としないものが残る。
どういうことかと言うと、ラッセルの結論が単純すぎるのである。
ラッセルが同書の第二部「幸福をもたらすもの」のなかで到達する答えは簡単だ。
熱意、これである。幸福であるとは、熱意をもった生活を送れることだーこれがラッセルの答えだ。
もうすこし詳しく見てみよう。ラッセルによれば、幸福には二種類ある。
一方の幸福はどんな人間にも得られるものであり、他方は読み書きのできる人間にしか得られないものだ。
両者は地味なものと凝ったもの、動物的なものと精神的なもの、感情的なものと知的なものなどと形容されうる。
ラッセルはそれぞれに対して例を掲げている。
まずどんな人間にも得られる幸福について。 ラッセルが紹介するのは彼が個人的に知っていた二人の人物である。
一人は屈強な肉体をもった、読み書きのできない井戸掘りである。
彼は選挙権を得るまで国会というものの存在すら知らなかった。だが彼は「幸福ではちきれそう」だった。
彼にとっては、体力と仕事に恵まれ、岩石という障害物に打ち勝って穴を掘ることが幸福である。
そしてそれが十分に満たされていた。
もう一人はラッセルが雇っていた庭師である。
彼は庭を荒らすウサギと年がら年じゅう戦っていた。庭師は「ウサギのことをまるでロンドン警視庁がボルシェヴィキのことを話すように話す」。
彼は終日働いているが喜びの泉は涸れることがない。
そんな彼の喜びを供給するのは、「あのウサギのやつら」である(またウサギだ・・・・・・)。
学のある人間はそんな単純な喜びで満足することはできないと人は言うかも知れない。
だがラッセルによれば、最高の教育を受けた人も彼らと同じような喜びを得るのである。
ラッセルがあげるのは科学者の例だ。科学はその意義を広く認められている。
だから科学者は自分の課題に真っ正面から取り組み、課題を達成することで、大いなる幸福を得ることができる。
感想
幸福であるとは、熱意をもった生活を送れることだ、という。
熱意を持った生活がイメージしづらいと思いました。
下記の本を参考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎