こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
自分にとって大事な、意味のある「世界」
ややもすると私たちは、ほかの人間とほんとうの付き合いをしたいという欲求にかられたり、ほんとうに自分のことをわかってもらいたいと願ったりするようだ。
またそれらとは正反対に「他人とのつながりなんてどうでもいい、重要なのは、自分にとって大
事な、意味のある「世界」を大切にすること、「世界」が他人によって損なわれないことだ」という感覚に陥る場合もある。
自分にとって大事な、意味のある「世界」に内閉することによってほかの人間にわずらわされず自分の楽しみを追求したいという欲求は、現代人に特徴的な傾向としてよく指摘される。
アニメやテレビゲームあるいは芸能アイドルにはまるといったいわゆる「オタク」の世界は、とりわけわかりやすい例だ。
しかしそうした世間に流布している定型化されたイメージージに収まらなくても、そうした閉じた世界に内明した「生」のかたちというものは成り立つ。
たとえば現代日本を代表する小説家村上春樹が好んで描く主人公の、他者に対する態度の取り方は、こうした自分の「内的世界」への自己完結の欲求といってもよい態度に満たされている。
たとえば昼食に食べるスパゲッティの作り方やビールを飲むシチュエーションに妙にこだわったり、聴く音楽や着こなす服装なんかにも自分のなかに明確な規則があったりする人物を、彼は小説
の主人公に据える。
しかしその意味をほかの人間にわかってもらおうなどとはあまり考えていない。
文芸評論家の加藤典洋は、ある対談のなかで、村上春樹が描く主人公の振る舞いの原理を「モラル(道徳)」に対する「マキシム(格率)」にもとづく行動というかたちで的確に提示している。
「モラル(道徳)」とはほかの人間と共有されるような一般的なルール、「マキシム(格率)」とは「自分の行動を自分で律する、自分だけ適用できるルール」なのだ。
ひと言でいえば、自分の「マキシム」を確立しながらそれをほかの人間にわかってもらいたいとかそれを共有したいという方向で社会化されることはない内閉した世界が、春樹が描く主人公の生き方の基本的なスタイルだ。
しかしながら、現実には(これはあくまで私自身の体験に照らしてのことかもしれないが)、こうした他者との「関係」に対する断念、いい換えれば、他者との体験の共有やコミュニケーションによって「わかりあえること」に対する断念は、多くの場合、他者とつながりたいという欲求が、挫折したことからくる一種の「反動(リアクション)」形態であることが多いような気がする。
本心では、他者に自分をわかってもらいたい、ほんとうの自分を知ってもらいたいと思い願い、そうした他者への期待があまりに大きいために、かえって他者との関係や距離の取り方がギクシャクしたものになるということは、意外に多いのではないだろうか?
あるいは自分のイメージどおりに、他者に自分をわかってもらいたいといったわがままな気持ちがつい頭をもたげるときだってあるだろう。
感想
他者との体験の共有やコミュニケーションによって「わかりあえること」に対する断念は、多くの場合、他者とつながりたいという欲求が、挫折したことからくる一種の「反動(リアクション)」形態であることが多いような気がするという箇所がおもしろいと思いました。
ぼくも、「わかりあえること」を断念することが結構ありますが、本音は逆かもしれないと思いました。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁