とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

快苦の定義は可能か

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


快苦の定義は可能か

 


ベンサムやミルのいわゆる古典的功利主義では、幸福快楽、不幸=苦痛と考えられた。

 


ベンサムの「序説』の冒頭にあったように、われわれ人間は快楽を追求し、苦痛を避ける存在だという考え方だ。

 


しかし、これについてはいくつか問題がある。

 


一つの大きな問題は、快楽とはいったい何なのかがよくわからないということだ。

 


これは、上で見た「幸福とは何か」という問いと同じ問題である。つまり、さまざまな快楽に共通する性質はいったいどのようなものなのか、ということだ。

 


たとえばベンサムは、人間の行為は究極的には快楽を求めていると考え、すべての人間の行為を快苦に結びつけた。

 


しかし、針で指と爪の間を刺されて痛いとか、マッサージを受けて気持ちいいなどの身体的な快苦は比較的わかりやすいが、精神的な快苦というのはそれと同じレベルのものなのだろうか。

 


たとえば上司に怒られて腹のあたりが痛いという

のは身体に現れた苦痛なので同列に語れるかもしれない。

 


だが、次のような例はどうだろうか。

 


あなたが3度の飯より酒が好きというほどの無類の酒好きだとしよう。

 


しかし、長年の飲酒癖がたたって、体はぼろぼろ、アルコール依存症の一歩手前まで来ているとする。

 


日も飲んでから真夜中に帰宅すると、寝ずに待っていた妻がこれ以上飲んだら子どもを連れて実家に帰りますと、よよと泣きながら訴える。

 


娘もお父さんお酒はもうやめてとつぶらな瞳に涙を浮かべて言う。

 


あなたは海より深く反省し、酒を断つことを誓う。しかし、次の日の夜になるとまたぞろ酒が飲みたくてたまらなくなる。酒を飲むと一時的にせよ、強烈な快楽が得られることがわかっている。

 


ここで仮に、今回はあなたの断酒の意志がとても強く、酒を飲む欲求に負けなかったとしよう。

 


その場合でも、あなたは快楽を追求していると言えるだろうか? むしろ、意志の力によって、快楽を追求することを拒否したと言えるのではないか。

 


ここで、家族の崩壊を防ぐために断酒することで、飲酒による一時の快楽を上回る快楽を追求しているのだと解釈することもできる。

 


しかし、その際の「快楽」とは正確にはどのようなものなのか。

 


飲酒の誘惑に負けないことを選ぶ場合、酒を飲まないことによって得られる「快楽」を追求しているというよりは、幸福のために快楽の追求を断念したと言った方が正確ではないだろうか。

 


別の言い方をすると、仮に功利主義を支持する科学者たちが、快苦の強度や持続性など今を読みとれる「快苦メーター」を作ろうとしているとする。

 


これを体のどこかに埋め込んでおけば、現在、あるいは過去に経験した快苦が計測できるというものだ。

 


その場合、快苦メーターは、電気メーターが電力の使用量を計るのと同様に、何かについて計っていなければならないだろう。

 


しかし、よく考えてほしいのだが、上で挙げた事例すべてに共通する「何か」は、本当に見つけられるだろうか。

 


マッサージを受けている「快」と、あなたが飲酒の誘惑に耐えているさいに得ている(と考えられる)「快」を測定するための共通の尺度はあるだろうか。

 


もしそのような尺度があるとすれば、「快苦」がきちんと定義されたことになり、「快苦メーター」もうまく機能するだろう。

 


だが、おそらく酒飲みのあなたが酒をがまんしているときに快苦メーターをチェックすると、メーターが振り切れるほどの苦痛を感じているのではないだろうか。

 


そうだとすると、酒を我慢することによる「快」というのは、通常言われる快苦とは異なる次元のもののように思われる。

 


いずれにせよ、われわれの行為すべてに共通する「快楽」を定義するのは難しく、仮に定義できたとしても、元々出発点にあった定義とは異なるものとなる可能性が高い。

 


別の言い方をすると、「すべての行為は究極的には快楽を追求している」というのはシンプルで魅力的な説だが、その場合に言われる「快楽」は、通常の意味とは異なった、内容空疎なものになっている可能性がある。

 


むしろ普通の言葉遣いでは、われわれは快楽を追求していることもあれば、そうでなくて別のものを追求していることもある、というふうに考えた方がすっきりするように思われる。

 


苦痛についても同様だ。たとえば、今日の医療では緩和ケアという領域がある。これは、がんの治療などにおいて患者の苦痛を和らげることを主な目的とする医療だ。

 


最近は、単なる身体的苦痛を取り除くだけでなく、不安やいらだちなどの精神的苦痛、経済的事情や家族関係などの問題に由来する社会的苦痛、そして人生の意味や死生観の問題などに由来する霊的な苦痛(スピリチュアル・ペイン)にも取り組むべきだと言われている。

 


これらさまざまな苦痛は総称して「全人的苦痛(トータル・ペイン)」と呼ばれる。今日の緩和ケア

は、全人的苦痛の緩和に取り組むべきだと唱えられている。

 


これは大変重要な取り組みだ。しかし、これらすべてに共通する「苦痛」とはいったい何だろうか。

 


先ほどの上司に怒られて腹が痛くなった例のように、精神的苦痛は、結局は身体的な苦痛に還元されるのだろうか。

 


あるいは、精神的苦痛は、身体的苦痛とは別なも

のなのだろうか。また、社会的問題や霊的な問題がわれわれに与える苦痛は、われわれの身体に与えられる苦痛なのか、精神に与えられる苦痛なのか、あるいはそれ以外の苦痛なのか。

 


快楽の場合と同様、ここでもやはり「苦痛」の定義が難しい。仮に定義できたとしても、そこでは、通常われわれが考えている「苦痛」とは異なるものになってしまっていて、もはや別の名前を付けた方がよいものになっている可能性が高い。

 


感想

 


「快苦メーター」が上手く機能すれば、功利主義もより現実的になると思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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