こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
退屈の反対は快楽ではない
実際にラッセルの退屈論を検討しよう。
退屈とは何か? ラッセルの答えはこうだ。
退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。
どういうことだろうか?
ラッセルの言わんとするところを理解するためには、ここで「事件」が何を意味しているのかを明確にしなければならない。
ここに言われる「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。
人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。「同じことが繰り返されていくのだろう」と考えてしまうことにも耐えられない。
だから、今日を昨日から区別してくれるものをもとめる。 もしも今日何か事件が起きれば、今日は昨日とは違った日になる。
つまり、事件が起きれば同じ日々の反復が断ち切られる。だから人は事件を望む。
しかし、そうした事件はなかなか起きはしない。こうして人は退屈する。
これが、「事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの」という退屈の定義の意味するところである。
こう考えると奇妙なことに気がつくだろう。
退屈する心がもとめているのは、今日を昨日から区別してくれる事件である。
ならば、事件はただ今日を昨日から区別してくれるものであればいい。すると、その事件の内容はどうでもよいことになる。不幸な事件でもよい。悲惨な事件でもよい。
「他人の不幸は蜜の味」 と言われる。だれかが他人の不幸を快く感じたとしても、 それはその人の性質が根底からねじ曲がっていることを意味しない(もちろんすこしはねじ曲がっているかもしれないが)。
この蜜の味には、ある構造的な要因があるのだ。
しかもそれどころではない。事件を望む気持ちは、他人の不幸はもちろんだが、我が身に降りかかる不幸にすら及ぶだろう。退屈する人間はとにかく事件が欲しいのだから。
人間は自分が不幸になることすらもとめうる。
したがって最終的に次のように述べられることになる。
ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。
退屈しているとき、人は「楽しくない」と思っている。だから退屈の反対は楽しさだと思っている。
しかし違うのだ。退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。興奮できればいい。
だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。
感想
退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。興奮できればいい、という指摘がおもしろいと思いました。
楽しくなくてもいい、という指摘も意外でした。
下記の本を参考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎