とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

格差と政治腐敗のどちらかが問題か

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


経済的不平等と政治的支配

 


ここでリバタリアニズムと政治との関係に戻ろう。 リバタリアニズムへの反論として、市場経済が生み出す経済的不平等はそれ自体で不正だが、かりにそうでないとしても、政治的権力の不平等、さらに支配服従関係をもたらすから不正だ、と言われることがある。

 


リバタリアニズムは政治を不当にも市場経済の領域に一元化してしまうというのである。

 


これに対してリバタリアンは次のように答える。

 


第一に、経済的不平等の存在は、それだけを取り出して観察すれば残念なことかもしれないが、各人の自由な行動の結果である限りは不正でない。

 


自由市場はすべての当事者の暮らし向きをよくするとはいえ、万人が等しい利益を受けることは保証しない。

 


いやむしろ、それぞれ異なった人々が自由に行動する限り、彼らの経済的な境遇に差が生ずるのは当然のことである。

 


ミーゼスが言うように、「所得と富の不平等は、市場経済の本質的特徴である。それをなくすと、市場経済は完全に破壊される」。

 


所得の再分配を主張する人の多くは、資源は市場によって効率的に配分 (allocate) されるべきだが、所得は政府によって公平に分配 (distribute) されるべきだと考えている(それとは少し違うが、裁判や私法の目的は資源を効率的に配分することであり、所得の分配は政治的決定の任務であると主張する人もいる)。

 


そこでいう効率性と公平という概念の具体的内容について人々の見解が一致しているわけではないが、ともかく資源配分と所得分配は別々の機能で、効率性と公平は個々独立した価値だと考えられている。

 


しかし資源配分と所得分配はそんなに簡単に切り離せるものではない。同じ財が資源でもあれば、同様に所得でもある。効率性と公平は、その内容が何であれ、たやすく両立しないのである。

 


では、どちらを優先させるべきか? 前者とリバタリアンの経済学者の多くは主張する。公平という概念自体が極めて多義的で濫用されやすいだけでなく、そもそも公平は市場経済の目的とみなすべきではない、と考える。

 


政府が万人に最小限の生活を保証することは、リバタリアニズムからも擁護する余地はある。

 


しかし、そこで問題になるのは、相対的な貧富の差の是正ではなく、絶対的貧困の救済である。単なる相対的貧困は政府による介入を正当化しない。

 


通俗的には、「貧富の格差」が大きいことは当然悪のように考え がちである。そして経済学者は所得分配の不平等さを測定する尺度として、ジニ係数をはじめさまざまな方法を考え出してきた。

 


しかし、他の人々との比較による相対的な関係である(不) 平等を重視することは、各個人が自分の本当に大切にしているものをどのくらい実現できるかといはるかに重要な問題から関心をそらせて、経済的問題をゼロ・サム・ゲーム的に見せてしまう傾向がある。

 


かりにある社会の中で貧富の差が拡大するとしても、それが貧しい人々が一層貧しくなることによるものではなく、彼らが豊かになる程度が相対的に豊かな人々が一層豊かになる程度よりも小さいことによるならば、その変化は改善である。

 


市場経済は分業を発達させるが、ミーゼスも指摘するように「分業は人間の生来的不平等を強める」。

 


人は自分の得意な才能を伸ばして専門家になっていく傾向があるから、自分一人でさまざまな仕事をこなさなければならないときよりも、個人差が拡大していく。

 


だから市場経済は、身分や特権を廃止する一方で、おそらくそれ以前の社会よりも人々の間の貧富の差を拡大するだろう。

 


しかし国際分業に関するリカードの「比較優位」あるいは「比較生産費」の理論が個人間でもあてはまる。相対的に能力の劣る人も、市場経済において相互の交換から利益を受けることができる。

 


誰もが市場経済における方が暮らし向きがよいだろうから、その結果貧富の格差が拡大しても、そのことは何ら問題ではない。

 


経済的不平等は社会内部の連帯感を損なう、と言われるかもしれない。だが、リバタリアンはそもそも相互に人間性を認め合うという、礼儀正しい尊重以上の濃い連帯感が社会全体の中に存在しなければならないとは考えない。

 


濃い連帯感は共同体の内部で求めるべきである。

 


経済的に豊かな人と貧しい人の間ではライフスタイルが異なるために連帯感が生じにくいかもしれないが、そのことは、異なった宗教の信者や異なった地方の住民の間で連帯感が存在しにくいのと同様、問題ではない。

 


次に政治的権力の不平等についてだが、これはリバタリアニズムの立場からも確かに問題だ。

 


しかしそれは、経済的不平等を禁止する理由にはならない。問題なのは、正当な授権によって得られたのではない政治的不平等や、平等な自由を侵害するような政治的権力行使である。

 


たとえば、特殊利益を代表する団体や地域が票の力や族議員の影響力を利用して、保護や特権をかちとるのは不当である。特定の信念を持った人々がデモによって、それ以外の人々以上に政治に影響力を持つのも不当である。

 


多数派が少数派を犠牲にして利益を得ること(たとえば少数の金持ちからの累進課税によって所得を多数の中間層に再分配すること)も不当である。

 


現代の日本を含む、利益配分型の政治は、たとえどんなに民主的であっても、原理上不正である。

 


なぜなら絶対的貧困を救済するための福祉給付や十分に理由のある公共財(ここでは国防や法秩序も含む)の供給を除くと、政府には果たすべき役割など残っていないからである。

 


政治権力の不平等の防止策は、多様な利益集団の政治参加の平等化ではなく、政治権力自体の最小化であって、それがなされれば、経済的な力が政治に影響するということもおのずからなくなる。

 


それはちょうど、政界財界の癒着をなくすために

は、財界の内部調整によって利権を公平に分配するのではなしに、利権そのものをなくすべきであるのと同様である。

 


このように考えると、政治とは多様な利益集団の取引と妥協の過程だと考える 「政治的多元主義」や、個々人の利害は職能団体とその代表者によって代表され調整されると考える「コーポラティズム」と呼ばれる見解は、政治の実態を記述するものとしては正しいかもしれないが、規範的な見解としては斥けられる。

 


社会の中に多様な利益が存在することは事実だが、その利益の追求は強制力を伴う政治の場ではなしに、民間の領域でなされるべきである。

 


人からお金をもらいたかったら、課税によって否応なしに取り立てるべきではなく、寄付か交換によって、相手の納得ずくでもらうべきなのであ

するとリバタリアニズムが認める政治の役割は結局何なのか?

 


それは、市場では十分に供給されない公共財が何であり、政府がどれだけ供給すべきかを決めることと、福祉給付の程度を決めることくらいに限られるだろう。むろんこれらの政治的決定に際しても、自己利益的考慮は入り込んでくるだろうが、右の原則が建て前としてでも認められれば、政治が利益集団に利益を分配できる程度は現在よりもはるかに制限されるだろう

 


感想

 


筆者の言うように、経済的不平等よりも政治的支配の方が問題かも知れないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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市場は戦場か

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


市場は「戦いの場」ではなく「協力の場」

 


最後に、一番重要なことを述べたい。人々の間で狭い自己利益を超えた連帯が可能になるのも、大部分は市場のおかげである。

 


ロスバードが大著『人間、経済及び国家』の中で

言うように、社会の起源を説明するに当たって、個人間の何か神秘的な交流あるいは「親近感」を呼び起こす必要はない。

 


実のところ、友情と交流の感情は、(契約で保証された)協力の原因というよりも、むしろ結果である。

 


一人の人間の利益が他の人間の利益である相互の有利な交換に適した自発的社会協力の世界では、社会的共感と人間的友情の発展にとって大きな範囲が与えられることは明らかである。

 


市場社会はしばしば「弱肉強食」の社会としてイメージされるが、これは間違いである。

 


それは協力と分業によって相互に利益を与え合う共存共栄の場である。そこでは他の人に比べて相対的に小さな利益しか得られない人々もいるだろうが、その人々も強者の犠牲になっているわけではなく、やはり市場から恩恵を受けている。

 


自由市場における「競争」は、第三者に一層大きな利益を与えよう(そしてその見返りに自分も利益を得よう)とする人々の競い合いのことである。

 


それは戦争やゲームにおける戦いとは全く性質が異なる。戦争は、社会全体にとって無益で破壊的なマイナス・サム・ゲームであり、スポーツ競技やボードゲームなど通常の意味でのゲームは、誰かが勝てば他のプレーヤーがその分だけ負けるゼロ・サム・ゲームである。

 


このような状況、特に前者の戦争では、「弱肉強食」という表現があてはまるだろう。

 


しかし市場での競争における勝者は取引相手との相互に有利な取引から利益を得るのであって、競争相手から利益を奪うのではない。

 


市場取引はよく無反省に言われるような「等価交換」ではなくて、当事者双方にとって有利なプラス・サム・ゲームである。

 


市場での競争と競技や戦争における敵対とを混同する用語法は一般的だが、それは市場の生産的・協同的性質を見失わせる有害な発想である。

 


『ヒューマン・アクション』におけるミーゼスの次の文章は、この事情を見事に表現している。

 


市場経済の枠組みの中では、競争には、この言葉が相容れない利害の敵対的衝突を示す際に用いられる意味での、敵対という含みはない。

 


競争者は、相互協力のシステムの中で、業績の優秀性と卓越性を目指す。

 


競争の機能は、社会全体とその全構成員に最も良く役立つことができる地位を、社会システムのあらゆる構成員に割り当てることである。

 


それは、それぞれの仕事に最も有能な人を選ぶ方法である。

 


軍事用語は、ビジネス活動の記述に不適当である。例えば、市場の征服という表現は悪い比喩である。

 


ある企業が、競争相手よりももっと良質か、もっと低廉な製品を提供する場合には、征服は存在しない。ビジネス活動に戦略があるのは、比喩的な意味においてのみである。

 


さらに言えば、市場経済において企業間の競争が敵対的衝突を意味しないのと同様に、いやそれ以上に、国際貿易における諸国家の間にも、農業と工業といった産業間にも、資本家と労働者といった階級(それが存在するとして)の間にも、敵対的衝突は存在しないということになるだろう。

 


それは諸個人がそれぞれ異なった利害を持っていて、各人の目的が両立しないとしても、人々が敵対しているわけではないのと同様である。

 


敵対的衝突が発生するのは、市場の枠組みの内部ではなく、当事者が暴力に訴えて相手の権利を侵害したり、政府がいずれかの当事者に特権を与えて法の下の平等に反したりした場合である。

 

 

 

感想

 


市場競争は弱肉強食で勝者と敗者が分かれるイメージが強かったですが、そうではない側面もあるかもしれないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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経済的自由と課税

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


選択の自由と社会的圧力

 


リバタリアンは個人的自由に対する国家による介入を原則的に不正だと考えるが、人々の自発的活動から生ずる社会的圧力や経済的力関係は自由の帰結として容認する、ということである。

 


たとえば表現の自由の中には、自分が望ましくないと考える生き方や不合理だと考える世界観を公然と批判したり、からかったり、軽蔑したりする自由も含まれている。

 


権力や実力の行使を含まない限り、リバタリアニズムは個々人をそのような敵対的な反応から隔離しようとするものではない。

 


また、企業の広告活動が消費者の欲求自体に影響するとは、資本主義の批判者がよく鬼の首でもとったかのように指摘する事実だが、そのことは消費者の欲求や信念が友人や家族の意見や、たまたま読んだ書物や雑誌の意見に影響されるのと同様、消費者の自由を何ら侵害するものではない。

 


消費者には、たとえば遺伝子組み換え技術を用いた製品や 労働力が安い海外で生産された製品をボイコットする自由もある。

 


消費者が自分の自由を行使するやり方が、後々本人から見て賢明でないものもあるだろうが、それは他人が強制すべきものではない。

 


人々が特定の社会的環境の中で暮らしている以上、その行動が社会から影響を受けるのは当然のことである。

 


それどころかむしろ、リバタリアンは、権利侵害に至らないインフォーマルな社会的制裁があるからこそ、政府が強制的に介入しなくても個人の規律や社会の秩序が保たれると考える傾向がある。

 


道徳の実現は政府の任務ではなくて、社会を構成

する人々の行動の結果である。

 


他者から何の影響も圧力も受けずに個人が選択を行うことを「自律」と呼ぶならば、リバタリアニズムは強制の欠如という意味での消極的自由を保

護するものではあっても、その意味での自律を保護するものではない。

 


言い換えれば、リバタリアンが最小限にとどめようとしている権力は、ミシェル・フーコーの影響を受けた人々が、日常生活の中に「ここにもある、あそこにもある」と指摘して告発するような、遍在する無定形なミクロの権力ではなくて、大文字の公的な権力である。

 


そして今日の世界では、その権力の重要な部分は裸の実力行使ではなくて課税である。

 


なぜなら課税はたとえ給料の天引きのような目立たない形を取っても、経済的自由への制約だからである。

 


権力を行使しているのは警察や軍隊だけではない。

 


むしろそれ以上に、税務署がそれを行使している。また私有財産の利用へのさまざまな規制も、見逃されやすい権力行使である。

 


感想

 


そして今日の世界では、その権力の重要な部分は裸の実力行使ではなくて課税である。

 


なぜなら課税はたとえ給料の天引きのような目立たない形を取っても、経済的自由への制約だからである。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


課税に関しては、確かに、使われ方に疑問を感じることはあります。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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国家とは

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


「民間」対「政府」あるいは「社会」対「国家」

 


結局リバタリアンにとって重要なのは、市場と非市場の区別ではなく、市場と社交の両方を含む、民間の領域と政府の領域との区別である。

 


なぜなら、民間の領域は自己所有権に基づく個人的自由が発揮される領域だが、政府の領域はそれが(時には不正に)制限される領域だからである。

 


前者は各人が自分の負担の下に行動する領域であり、後者は各人が他人の負担の下に行動する領域である。

 


これを人間集団の区別の点から言えば、重要なのは営利団体非営利団体の区別ではなく、公法人と民間団体の区別である。

 


民間と政府の区別は、別の表現を使えば、社会と国家の区別である。

 


社会と国家はしばしば「私」に対する「公」として混同されがちで、日本語には「国家社会」という表現もあるが、両者ははっきりと区別すべきだろう。

 


社会とは個々人とその行動の総体である。

 


ちなみにリバタリアンは、その中でも非暴力的な協力関係だけを「社会」と呼ぶことが多い。

 


政府と比較した社会の重要性を指摘するものとしては、トマス・ペイン 『人間の権利』第二部第一章を参照されたい。

 


社会の内部には、市場やさまざまな共同体が混在する。これに対して、国家は普通の体に認められていない特権と権力を持った、特定の人々からなる制度である。

 


あるいは、19世紀前半のフランスの自由主義者バスティアの後の公共選択学派を思わせる言い方によれば、「国家とは、それによって誰もが他の誰もの支出によって暮らそうとする、巨大な擬制的実体である」。

 


そのことは君主制国家であろうが、国民全体が主

権者である民主主義国家であろうが変わらない。

 


社会と国家のこの区別によれば、「社会政策」とか「社会主義」といった表現も不適当ということになる。

 


その実態は、国家が社会に介入する政策であり、主義だからである。

 


なお、個人の自由を尊重する社会はしばしば 「市民社会 (civil society)」 とも呼ばれるが、「市民」には昔から「主体的に政治に参加する人」という含みがあるから、政治の領域を狭く限定しようとするリバタリアニズムはこの言葉を避ける方が賢明である。

 


感想

 


「国家とは、それによって誰もが他の誰もの支出によって暮らそうとする、巨大な擬制的実体である」という箇所がおもしろいと思いました。

 


税金を強制的に集め、使い道を分かりにくくしていると思うので、そう感じます。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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リバタリアニズムの守備範囲

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


市場の中の人間関係

 


リバタリアニズムは、決してあらゆる人間関係を市場経済に委ねようとしているわけではない。

 


社会の中には市場以外にも、家族や友人関係やさまざまの共同体など、もっと緩やかなネットワークが存在する。

 


人は個性のない匿名的個人として市場の中で財やサービスを交換するだけでなく、それらの集団の中でも行動している。

 


そのような活動は、大部分の人々の生活に欠かせないものだが、経済活動とは区別される。

 


のみならず、信頼というものが重要な役割を果たす継続的取引はいうまでもなく、見知らぬ人同士の一時的な経済的取引でさえ、実際には幾分かの人格的関係を含んでいることが多い。

 


われわれはしばしば、店の店員やタクシーの運転手と世間話をする。

 


リバタリアニズムが最小限にとどめようとしているのは、必然的に強制を含むことになる政府であって、市場以外の人間関係一般ではない。

 


リバタリアニズムは、集団が個人の権利を侵害しない限り尊重する。そうしてこそ、集団を構成する人々の自由を尊重できるからである。

 


従って、「国家(政府) 対市場」あるいは「政治対経済」という二分法を前提として、リバタリアニズムが、それぞれの対のうち後者の優越を唱えると単純に考えるのは不正確である。

 


リバタリアニズムは確かに国家や政治の領域を狭く限定しようとするが、残りの民間の領域をただちに市場経済と同一視することはせず、第三の領域として、市場の外のヴォランタリーな人間関係も重視するからである。

 


ちなみに、この第三の領域にぴったりあてはまる言葉を探すのはなかなか難しい。

 


「協力」では共通の目的を持つ関係だけを意味するように思われる。

 


「共同体」は連帯感で結ばれた関係しか指しにくい。

 


「社交」という言葉が思い浮かぶが、これも違う意味で狭すぎるかもしれない。

 


ところで市場は、財やサービスの交換という、狭い意味での経済活動だけが行われる場ではない。

 


すでに述べたように、そこにも人格的交流は存在する。 そこは新しい文化や技術が生まれる場でもあれば、人々が影響を及ぼし合い、学ぶ場でもある。

 


市場と社交の相違はオールオアナッシングではなくて、程度の問題である。自動販売機で物を買うような、純粋に非人格的な市場取引もあれば、親類から不動産を好条件で買ったり借りたりするよ

うな、 市場と共同体の双方の性質を持った取引もある。

 


その一方では、親しい友人間でも金銭関係は厳格ということは多い。

 


民法学では純経済的な有償契約と特別の人間関係に基づく無償契約とをカテゴリカルに対立させて、無償契約は現代社会では重要な役割を果たさない、と言われることが多い。

 


しかし現実にはそのような二つの典型にぴったりおさまらないような契約も多い。

 


白から黒の間に無限に多様な明るさの灰色の領域があるように、市場と社交との間に厳格な境界線を引くことはできないし、無理に境界線を引く必要もない。

 


リバタリアニズムは市場を社交に対して優先させるものではない。それは両者を等しく非権力的人間関係として、尊重するのである。

 


感想

 


リバタリアニズムが最小限にとどめようとしているのは、必然的に強制を含むことになる政府であって、市場以外の人間関係一般ではない。

 


という箇所が印象に残りました。

 


勘違いしそうなところなので、余計にそう感じます。

 

 

 

下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

 

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必要悪としての国家

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


必要悪としての国家

 


リバタリアニズムにおいて、政治はいかなる役割を果たすのか?

 


この問題は、リバタリアンの間で、意外に正面きって論じられることが少ない。

 


しかし、その考察はリバタリアニズムの特徴を明らかにする。

 


政治については、いくつもの見方がある。

 


政治を権力や利益をめぐる交渉や取引とみなす、現実的な見方、というよりもむしろ現実主義的な見方。

 


また、敵対する異質な世界観の間の実存的闘争とみなす見方。さらに、市民が公共的問題について討議を行う場とみなす理想主義的な見方などがある。

 


しかしどの見方をとるとしても、リバタリアニズムは政治の領域を狭く限定しようとする傾向がある。

 


なぜなら、政治の目的が何であれ、それは政府による強制という、それ自体としては望ましくない要素を含まざるをえないからである。

 


リバタリアンの中でも、無政府資本主義者以外は、制約された国家を正当なものとして認めるが、それも言ってみれば、必要悪として認めているにすぎない。

 


無政府資本主義者がそれを不必要な悪とみなしていることは言うまでもない。

 


「権力は腐敗する。 絶対権力は絶対的に腐敗する」というアクトン卿の言葉はリバタリアンが好んで引用するものである。

 


感想

 


政治の目的が何であれ、それは政府による強制という、それ自体としては望ましくない要素を含まざるをえないからである。

 


という箇所に説得力を感じました。

 

 

 

下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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国家が処罰権限を持つ理由

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


国家の処罰の権限

 


刑罰を社会全体の正当防衛の拡張として説明するとしても、「なぜ国家が、そして国家だけが、処罰の権限を持てるのか?」という問題は残る。

 


ジョン・ロックは『統治論』の中で、国家の処罰権は、社会契約による国家設立以前の自然状態の人々がそれぞれ自然権として持っていた処罰の権限に由来する、と主張した。

 


自然状態では誰もが早い者勝ちで処罰権を行使できたが、それでは社会的な紛争や不安が大きいので、国家に刑罰権を委ねた、というのである。

 


ロック自身、自然状態では誰にでも犯罪者を処罰する権利があるという自分の主張が「ある人々には非常に奇妙なドクトリンと思われるだろう」と認めている。国家による権力の独占に慣れきった現代人にとっては、なおさらだろう。

 


しかし被害者への損害賠償だけでなく、何らかの刑罰が社会の自己防衛のために正当化できるとすれば、社会全体を代表する人物がいない以上、社会を構成する人が誰でも刑罰を科することができるという結論は自然なものである。

 


そのような状態では刑罰権の行使が行きすぎたり不公正だったりする恐れが強いから、何らかの国家の正当性を認める以上は、処罰の権限も国家に委ねる方が便宜的だ、というだけのことである。

 


刑罰を科すのは国家だと自明の理のように考えられがちだが、私人(被害者に限らない)による処罰という観念は、十分理解できる。

 


このように考えると、「国家による不正な処罰に対しては、誰もが抵抗する権利を持っている」というだけでなく、「国家が権利侵害者の処罰を不当に怠る場合には、誰もが犯人を処罰する権利がある」という結論も出てくるだろう。

 


「悪法にも従うべきだ」と考えず、悪法への抵抗の道徳性を信ずる人ならば、私的処罰が正当である可能性も認めるべきである。

 


もっともその処罰には、公衆を納得させるだけの理由づけが要求されるが、法秩序も含めて、リバタリアンな秩序は、国家によって上から与えられ守られるというよりも、自由な個々人の行動によって下から実現されるものだ。

 


そのことは正当防衛や自力救済だけでなく、処罰についてもあてはまる。犯罪予防の方法は、国家による処罰を否定しないとしても、それ以上に被害者による権利の回復の請求と社会内部の圧力(その中には加害者の人身や自由や財産への侵害は含まれない) とに期待すべきである。

 


そしてそのためには、権利侵害の前科の公表は禁止されてはならない。こうした情報を国家(本人)に独占させるということは、「法秩序の維持はお上の仕事であって、私人が首を突っ込むべき事柄ではない」という発想からきているのだろう。

 


感想

 


自然状態では誰もが早い者勝ちで処罰権を行使できたが、それでは社会的な紛争や不安が大きいので、国家に刑罰権を委ねた、というのである。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


特に「早い者勝ちで」が印象に残りました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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