とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

日本人はネガティブ思考

こんにちは。冨樫純です。

 


心理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


過去ではなく未来を眺める

 


不確実な状況への耐性を高めるために、他にも意識できることがあります。

 


それは、長期的な視点をもち、過去ではなく未来を見据えて行動することです。

 


たとえば事故、病気、悪天候など、予測が難しい事情によって、大事なイベントへの参加を諦めざるを得なかったという経験をした時のことを考えてみましょう。

 


新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に伴い、オリンピックや国民体育大会も中止や延期になりました。

 


開催地が決定した時点でこうなることはもちろん誰も予測しておらず、私自身にとっても初めての経験でした。

 


オリンピックに限らず、スポーツに打ち込んできた選手たちの中には、参加予定だった大会が中止になったと聞き、心にぽっかりと穴が空いたような状態になり、練習に身が入らなくなった方もいたかもしれません。

 


良い成績をおさめるために一生懸命努力してきたにもかかわらず、急遽大会に参加できなくなるような出来事は、多くの人にとって不安ですし、今後はどうなるのだろうという不確実な状況を生み出します。

 


特に中高生の部活動などでは、2、3年で結果を出さなければならないような状況が多いため、勝つためにどのような練習をするか、対戦するチームや選手をどう攻略するかなど、直近の成功に目標が設定されがちです。

 


そうすると、その目標を達成する機会が奪われてしまった時にどうすればいいのかわからなくなってしまうことがあります。

 


目の前の試合にどうやって勝つかという、直近の成功(目標)を考えることももちろん大事ですが、ぜひ、そのもっと先についても考えてみてください。

 


なぜ、あなたはそのスポーツを選んだのでしょうか。

 


中学校や高校を卒業し、大学、社会人と年齢を重ねていく中で、今そのスポーツに打ち込んでいることがあなたに何をもたらしてくれるのでしょうか。

 


規則正しい生活をして、練習に励んだ経験は、スポーツ以外の何かに役立つことはないでしょうか。「どうやって (How)」、ばかりではなく、「なぜ (Why)」、 の視点を意識することで、物事を長期的に捉え、目標達成に向けて自分をコントールし、適切な行動を取れるようになる場合があります。

 


より遠い未来を想像しながら活動できれば、目の前の課題に対する失敗や成功の意味も、また違って捉えられるでしょう。

 


残念ながら、日本人はこの長期的な視点でもって物事を考えるのが苦手です。

 


日本人は、不運に見舞われた人に対して、アメリカ人よりもその人物の過去の行いに注目して非合理的な推論(日頃の行いのせいで不運に見舞われたのだ)をする傾向にありました。

 


そして同時に、将来のポジティブな出来事をイメージして現在の不運を乗り切るという考えに慣れていないようでした。

 


さらに日本では、「成功したい」よりも、「失敗したくない」と考えて行動をおこす人が多いこともわかっています。

 


試験前に、あなたは「悪い成績を取りたくない」と考えて勉強しますか? それとも「良い成績を取りたい」と考えて勉強しますか?

 


どちらのタイプであっても、それが学習の質と量を高め、成績を向上させ、あなたの気分を良くするのであれば問題ありません。

 


しかし、悪い成績を取りたくないという考え方が不安を強めてはいないでしょうか。

 


次の試験で失敗しないようにすることばかりに注意が向いてしまい なぜ自分はこんなに勉強をしているのかよくわからなくな てしまった、という経験はありませんか。

 


もしそうだとしたら、いきなりは無理でも、少しずつ未来志向の考え方を取り入れてみてください。

 


未来は不確実なことだらけで、この先も自分や周囲の人たち、日本社会、世界がどのような出来事に遭遇し、どんな結果を得るのかを正確に予測することはできません。

 


感想

 


日本では、「成功したい」よりも、「失敗したくない」と考えて行動をおこす人が多いこともわかっています、という箇所がおもしろいと思いました。

 


ぼくも、失敗したくないと考えてしまいます。

 


下記の本を參考にしました

 


『「心のクセ」に気づくには 』

 社会心理学から考える

 村山 綾

 ちくまプリマー新書

 

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不確実性を受け入れる

こんにちは。冨樫純です。

 


心理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


不確実性を受け入れる

 


不確実性を低減するための工夫は、100%正確に将来を予測したり不安をなくしたりすることを可能にするものではありません。

 


ゆえに不確実性を受け入れることも大事です。

 


この点において、状況の力、すなわち外的要因の影響を頭に立つでしょう。

 


自分や周りの人に起こった出来事の原因は実にさまざまで 自分が持っている知識や情報だけですべてがわかるはずはないのです。

 


私たちが、特に他者の行為や反応、他者に起こった出来事の原因を、その人の性格だったり、能力や努力だったりといった、内的要因に帰属させやすく、外的要因の影響を過小評価しやすいのです。

 


このような「心のクセ」の存在を知れば、一方的で自分勝手な原因帰属をしにくくなり、自分の考えを修正するきっかけももたらしてくれます。

 


ある教科のテストの点数が悪かった同級生に対し

て、「あんなに準備する時間があったのに。それを有効活用できていないのだから努力不足だ」とか「やる気がないんだな」と決めつけるのはよくありません。

 


「あんなに準備する時間があった」のは自分だけかもしれませんし、「やる気」はあいまいな概念でテストで高得点を取るための必要条件でもありません。

 


またこれと関連して、いつでもどこでも、ずっと「良い人」、「悪い人」がいるわけでないことも意識する必要があります。

 


たとえば私たちの行動は、コミュニケーションを

取る相手によっても変わります。

 


ある関係性においてはうまく行かなくても、別の関係性においては円滑なコミュニケーションが取れる場合もあります。

 


朝起きて、部屋の片付けのことで母親と口ゲンカをしたとしましょう。

 


家を出る時刻になったので、母親と仲違いをしたまま学校に向かうことになりました。

 


このことでイライラしていたとしても、学校に到着し、仲の良い友人を見かけると、おそらく多くの人がその友人に接するいつもの態度で、好意的なコミュニケーションを開始するのではないでしょうか。

 


場合によっては朝に母親とケンカしたことについて話を聞いてもらうかもしれません。

 


私たちの行動は、置かれた環境やコミュニケーション相手などの外的要因の影響を受けるのです。

 


ある特定の場面において、自分は常に一貫した行動をとっていると思っていても、実際はそうなっていなかったということもあります。

 


イスラエルで実施された研究では、経験豊富な裁判官8名が出した、合計1112件の仮釈放の判断結果のデータを10ヵ月にわたって収集しました。

 


それらを分析したところ、勤務開始直後には被告に有利な判決が5%程度だったのが、お昼の休憩が近づくにつれてほぼゼロまで低下することがわかりました。

 


そして休憩を挟んだ後にはまた5%程度まで戻り、再び勤務終了時間に向けて被告に有利な判決が少なくなっていくことがわかりました。

 


つまり、「お腹が空いてきたら(疲れてきたら) 判断が厳しくなる」傾向がみられたのです。

 


本来、法的な判断は証拠に基づいて客観的な視点からなされているはずです。 裁判官自身も、そう考えて業務をこなしているでしょう。

 


しかし実際のところ、本人すら気づいていない外的要因(時間経過に伴って生じた空腹感や疲労感)が判断に影響している可能性が示されたのです。

 


以上のように、私たちの行動や判断は実にさまざまな外的要因の影響を受けます。

 


それに気づける場合もありますが、気づけない場合もあります。自分のことですら正しく理解できていない時があるのに、他者の行動や他者に起こった出来事の原因を、その時に観察した情報だけで、常に正しく判断できるはずがありません。

 


そして、人の行動に関わる原因と結果の関係性の複雑さを認識することは、自分勝手な推論を抑える最初の一歩になるはずです。

 


「なぜあの人はあそこであんなことを言ったのだろう」、「あんな態度をとったのだろう」とつい考え込んでしまうこともあるでしょう。

 


ただしその後に、「考えてみてもよくわからないけど、それはそれで仕方ない」と、原因がわからないままにしておける方が、気持ちが楽になる時もあります。

 


感想

 


たしかに、不確実性を受け入れることも大事だと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『「心のクセ」に気づくには 』

 社会心理学から考える

 村山 綾

 ちくまプリマー新書

 

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データを使って不安のもとを可視化する

こんにちは。冨樫純です。

 


心理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


データを使って不安のもとを可視化する

 


人は不確実な状況におかれたら不安を感じやすい。

 


だとすれば、まずは不安のもとになる不確実性をできるだけなくしていこうというアイデアが思いつきます。

 


ここでは、記録やデータで不安をみえるようにして、自分でコントロールできる要素を見つけよう

とした、過去の私の経験を紹介したいと思います。

 


あくまで個人的な経験なので、多くの人が同様の状況に遭遇するわけではありません。

 


しかし自分ではない、他の誰かが経験した具体例を通して気がつくこともあると思いますので、ぜひお付き合いください。

 


私には3人の子どもがいますが、そのうちの2人は一卵性の双子です。双子は妊娠・出産時のトラブルが多く、私も例にもれずに「切迫早産(まだ生まれるには未熟にもかかわらず出産のプロセスが進みかねない状態)」の診断とともに入院となりました。

 


出産にはまだまだ早すぎるタイミングでいつ生まれてもおかしくない状態になったのです。

 


このまま妊娠が維持できるのか、それとも明日には出産になってしまうような状況に、私自身不安で押しつぶされそうになりました。

 


病室でずっと寝ていなければならない中、不安を少しでもコントロールできればと考え、その日の出来事を記録し始めました。

 


ありがたいことに、主治医の先生は頻繁にお腹の中の2人の子どもの推定体重をエコー検査で算出してくださったので、その数値や先生との会話、病室での出来事を毎日暇なので) 記録し続けたのです。記録と表現していますが、いわゆる日記ですね。

 


日々たまっていく記録を見返す中で、少しずつ2人の推定体重が増えていることを実感できました。

 


なにより、毎日の記録の積み重ねは、「まだ幸い出産に至っていない」という事実にも目を向けさせてくれました。結局入院は90日ほどにわたりましたが、その当時の記録は10年以上経った今も残っており、たまに読み返すこともあります。

 


点滴量、双子の推定体重、自分の体重(恐ろしいほど増えているのに自分は気づいていたのですが先生は出産直前まで気づいていませんでした)など、数値で示されるものに加え、自分のその時の感情状態を中心に記録をしました。

 


記録を取って保管しておけば、自分が記録した出来事やその時の感情状態を、より客観的に理解できる場合があります。

 


双子を出産してからも、さまざまな形で記録を取り、不安に向き合うことになりました。

 


保育園初年度は子どもたちがたびたび感染症に罹患し、仕事との両立に苦労しました。親の生活の仕方が悪いのか、子どもの体が弱いのか、それともその両方かと、「原因」を突き止めようとして右往左往しました(いずれも自分や子どもに対して内的帰属をしていることに気づきます)。

 


2年目以降はいくぶん病気に感染する回数が減ったように感じていましたが、この綱渡りの生活がいつまで続くのかという不安は常にありました。

 


そこで現状をより客観的に把握しておこうと、登園2年間の子ども3人の登園率を調べてみました。

 


少なくとも3つのことがわかります。1つ目は、3人の体調はそれなりに連動しているように見えること。2つ目は、保育園1年目よりも、2年目の登園率がかなり向上していること。そして3つ目は、いずれの年においても秋に体調がいいことです。

 


もちろん、たった3人分のデータなので、この図を作ることによって子どもが一般的にいつごろ病気になるかをピンポイントで予測できようになるわけではありません。

 


しかし我が家の子どもたちに関して、体調が良い、もしくは悪いタイミングがあるとしたらそれはいつ頃なのか、2年間の欠席の傾向を1つの図にして眺め振り返ることは仕事のスケジュールを組む上でも役に立ちました。

 


また、病気に罹患する「原因」を突き止めようとして疲弊するのではなく、病気になった時はこう動く、という具体的な対策も考えられるようになりました。

 


つまり、どうすれば子どもが病気にかからないかを一生懸命考えていたのですが、病気にかかった後にどうするかを考えるように変わったのです。

 


子どもが病気にかかることに対する心の準備もでき、不確実性の低減に少しは寄与したのではないかと思っています。

 


ここでは子育てに関わる私の経験を具体例に挙げましたが、記録やデータを取り、そのままでは目に見えない不安や不確実性を生み出している要素を目に見えるようにしていくという方法は多くの場面で活用できるはずです。

 


いろいろな角度から情報を眺めてみると、今まで見えてこなかったことも見えてきます。

 


自分の思い込みに気づいたり、コントロールできることとできないことを見極めたりするためのサポートをしてくれるでしょう。

 


感想

 


記録やデータを取り、そのままでは目に見えない不安や不確実性を生み出している要素を目に見えるようにしていくという方法は多くの場面で活用できるはずです、という箇所が印象に残りました。

 


可視化していくことで、不安が和らいだりすることはあると思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『「心のクセ」に気づくには 』

 社会心理学から考える

 村山 綾

 ちくまプリマー新書

 

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コロナ感染は個人の責任か

こんにちは。冨樫純です。

 


心理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


不安や不確実性が生み出す問題―新型コロナウイルス感染症を例に考える

 


自分や誰かが抱いている不安や、不確実性の高まりが生み出す問題について、新型コロナウイルス感染症の感染拡大時に実際に起こったことと合わせて考えてみたいと思います。

 


感染拡大時には医療の問題や経済的な問題なども起こりましたが、ここでは人と人とのコミュニケーションに関わる問題を取り上げ、「レイヤー」を意識しながら整理していきます。

 


まずは最初の感染が報道されて間もない頃(2020年春頃)の状況を簡単に振り返ります。

 


感染拡大によって学校が一斉休校になったり、楽しみにしていたイベントや部活動の大会などが中止になったりしました。

 


また、これまで慣れ親しんできた対面での、コミュニケーションが少なくなり、代わりにオンラインでのやりとりやテレワークが増加しました。

 


安定し秩序だった、予測可能な明日がやってくるという私たちの期待は裏切られ、この先どうなるのだろうという不確実性が生じたと言えます。

 


感染が確認され始めた当初は、具体的な症状や後遺症、致死率等に関する情報がほとんど無く、感染に対する人々の不安も非常に大きかったことが容易に想像できます。

 


個々人が抱く不安や、不確実性の高まりは、感染者に対する否定的な反応を生み出しました。

 


たとえば感染者に対して「自粛せずに遊んでいたのではないか」とか、「感染は自業自得」といった非難がなされました。

 


いずれも根拠のない推論であり、感染というネガティブな出来事が起こった原因を、感染者本人の行動に内的帰属させていることがわかります。これは、個人のレイヤーで生じた問題と言えます。

 


感想

 


たしかに、コロナ感染者を非難する傾向はありました。

 


下記の本を參考にしました

 


『「心のクセ」に気づくには 』

 社会心理学から考える

 村山 綾

 ちくまプリマー新書

 

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コミュニケーションの多層性を意識する

こんにちは。冨樫純です。

 


心理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


コミュニケーションの多層性を意識する

 


個人から社会へとレイヤーが積み重なっていくにつれて、自分以外の人たちに対する解像度は低くなり、どこかぼんやりした存在になっていきます。

 


このことが、社会のレイヤーで生じている問題の解決を阻んでいる可能性もあるでしょう。また、もともとは個人のレイヤーの問題だったことが、関わる人が徐々に増えて集団、社会のレイヤーへと移行し、事態が複雑になっていくこともありえます。

 


たとえば偏見や差別の問題は、もともとは「私」と「あの人」の関係からスタートするケースが多いです。

 


それが「これだから若者は」、「やっぱり高齢者は・・・・・・」、「どうせ男性は……」、「また女性は…………となってしまうことで、集団や社会のレイヤーの問題へと発展していくのです。

 


さて、レイヤーの視点を導入し、コミュニケーションを多層的に捉えてみると、さらに興味深いことに気づきます。

 


それぞれのレイヤーで生じる誤った推論やコミュニケーションの問題には、人それぞれがもつ自身の存在価値に関わる漠然とした不安や、これから先どうなるかわからないという未来に対する不確実性が共通して関わっているのです。

 


個人のレイヤーで生じる利己的帰属バイアス(自分の成功は内的要因に、失敗は外的要因に原因を求める傾向)の背景には、自尊心を守りたいという思いがありました。

 


そして、集団のレイヤーで生じる偏見や差別も、他の集団に望ましくない特徴を与え、相対的に自分や自分が所属する集団の価値を高めたり、正当化したりして安心を得る機能を持ちます。

 


社会のレイヤーで生じる格差の問題や、機能不全のシステムに対する是正がなかなか行われにくいことの背景にも、変化に伴って自分の存在価値が脅かされるとか、変化に対応できないことで自尊心が傷つくことを避けたいという人々の思いがありました。

 


個々人の不確実性への耐性のなさや自分の存在価値に対する脅威が、個人、集団、社会のそれぞれのレイヤーにおけるコミュニケーションの齟齬を生じさせている側面が少なからずあるのです。

 


感想

 


個人から社会へとレイヤーが積み重なっていくにつれて、自分以外の人たちに対する解像度は低くなり、どこかぼんやりした存在になっていきます、という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、ぼんやりとなっていくと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『「心のクセ」に気づくには 』

 社会心理学から考える

 村山 綾

 ちくまプリマー新書

 

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我々は格差を容認している?

こんにちは。冨樫純です。

 


心理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


格差の正当化

 


社会心理学者のジョスト は、社会階層における高地位者、低地位者がそれぞれの立場をどのように合理化し、現状を受け入れようとするのかを「システム正当化理論」にもとづいて説明しています。

 


ここでいうシステムとは、家族・学校・職場など、私たちが日々他者と共にすごす場所で共有されている秩序や、経済的・政治的な制度といった、社会の仕組み全体のことを指します。

 


システム正当化理論によると、私たちは、現状の社会システムを「今、ここに存在しているから」という理由だけで受け入れやすくなるそうです。

 


現状のシステムが不公正で、機能不全に陥っていたとしても、私たちはそのシステムを作り替えて変化を生み出すことを好まないとも指摘されています。

 


なぜなら、新しいシステムを導入して何か予測不能な出来事が起こるより、たとえ機能不全を起こしていたとしても、現行の予測可能なシステムを受け入れるほうが簡単で心地よく、自らの存在価値が脅かされることもないと思ってしまうからですまうからです。

 


ゆえに私たちは、さまざまな都合の良い理由づけをして、現状を受け入れようとします。

 


現状が不公正ではなく正当なものであると認識できさえすれば、そこに「正義」が存在していても、していなくても構いません。

 


自らの信条や経験など、とにかくどのような形であれ、何かしら理由をつけて、現状を肯定できればそれでいいのです。

 


社会階層における高地位者、低地位者を例にして、現状を肯定するプロセスをそれぞれ説明していきましょう。

 


社会の中で高地位にいる人たちは、今現在、成功を手にしているため、「人はその人にふさわしいものを手にしている」という因果応報的な解釈で自分の心を安定させようとします。

 


「周りに何を言われようが、今の自分があるのは、これまでに自分自身が努力してきた結果だ」、「成功できない人たちは、努力をせずに怠けているからだ(ゆえに、貧困に陥っても仕方がない)」、「得られた結果がすべてである」などと合理化を行います。

 


ヨーロッパの27ヵ国、4万7086名を対象にした国際調査では、社会経済地位の高い人ほど、自分の国のすべての人が、希望する職についたり、手に入れたいと考える教育レベルを達成したりすることができると考える傾向にありました。

 


そして、政府による富の再分配の必要性については低く見積もることも示されています。

 


今の社会は自分にとっても他人にとっても公正で、機会も平等に与えられているのだと現状を肯定していることがわかります。

 


一方で、低地位にいる人は因果応報の観点から自分の心の安寧を取り戻すことはできません。

 


なぜならこの理屈でいうと「成功しないのは自分が劣っている(怠けている)せいだ」となるからです。

 


ただし、現状を受け入れさえすれば(つまり、「もうこれは 変えることができない、仕方のないことなのだ」と考えれば)、少なくとも「なぜこのような恵まれない集団の一員として生まれてきたのか」という解決が難しい問題からは解放されます。

 


そこで、自分たちが不公正な社会で搾取されていると憤りを感じたり、精神的に不安定になったりするくらいなら、現状のシステムはうまく機能していると考え、不利な立場として生きていくことを認めよう、とします。

 


自分自身の社会的成功や、自分が所属する社会集団全体の地位が向上するといった期待を抱いていない人ほど、現状の社会制度やシステムを肯定しやすいことがわかっています。

 


また、高地位、低地位に関係なく、実力主義成果主義(現状の社会システム)を肯定するほど、人生満足度が高くなることも示されています。

 


社会階層の高地位者も低地位者も格差を正当化しようとするという話を聞くと、がっかりしたり、落ち込んだりする人もいるかもしれません。

 


しかし私としては、この本を読んでいるみなさんに「だから諦めましょう」と言うつもりはまったくありません。

 


むしろ、格差を解消したり社会構造を変化させたりするためには、それを阻む要因として、社会集団間の関係性や、私たち個々人の心の安寧に対する脅威が存在しているのだと知ることが重要だと考えています。

 


社会を変えるには、それを作り出している私たち人間の心のクセを理解する必要があるのです。

 


感想

 


私たちは、現状の社会システムを「今、ここに存在しているから」という理由だけで受け入れやすくなるそうです、という箇所に驚きました。

 


たから、政治改革などの「改革」は進まないのだと納得しました。

 


下記の本を參考にしました

 


『「心のクセ」に気づくには 』

 社会心理学から考える

 村山 綾

 ちくまプリマー新書

 

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金持ちは意地悪か

こんにちは。冨樫純です。

 


心理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


意地悪なお金持ち、心豊かな貧しい人

 


グリム童話の「貧乏人と金持ち」というお話の紹介から始めます。

 


あるとき神様が、大きな家に住んでいるお金持ちの夫婦に1晩泊めてもらえないかとお願いしたところ、「誰にでも親切にしていたらこちらがもたない」と断られます(このお話の時代の神様は、私たちが想像するような見た目ではなく、下界で人と普通にやり取りをしていたのですね)。

 


仕方なく、向かいの小さな家に住む貧しい夫婦にお願いに行ったところ、あたたかく迎え入れられ、夫婦から精一杯のおもてなしを受けます。

 


それに感動した神様は、翌日家を出る前に、夫婦の願いごとを3つ叶えてくれました。

 


貧しかった夫婦に幸せが舞い込んでくる様子を目の当たりにしたお金持ちの夫婦は気に入りません。

 


夫が慌てて神様を追いかけ、自分の願いも3つ叶えてくれと要求します。

 


さて、このあとの展開は……なんとなくわかりますよね。良い結果は得られず、散々な目にあうのですね(どんな結末か、気になる方はぜひインターネットで検索したり、その他のお話も含めてグリム童話を読んでみてください)。

 


この物語の教訓は、親切な行いをした人に良い結果が、失礼な振る舞いをした人に悪い結果がもたらされるという意味で、因果応報でしょう。そして、読み終わった後は「めでたし、めでたし」と多くの人が思うはずです。

 


しかし、ふと立ち止まって考えてみたら、私たちがごく当たり前に「貧乏人」と「金持ち」の存在を受け入れていることに気づきます。

 


極端に貧しい人やお金持ちの人がいる格差社会は本来であれば好ましくなく、そのような格差は是正されるべきです。

 


しかし、この物語の結末まで聞いて、「この話は、貧富の差が存在する世界は良くないということを私たちに伝えようとしているのだ」と思った方はほとんどいないでしょう。

 


なぜ私たちは「めでたし、めでたし」でこの物語を消費できるのでしょうか。

 


ひどく単純化すると、この物語は意地悪なお金持ちが酷い目にあい、心豊かな貧しい人が幸せを手にするお話です。

 


ここで、さまざまな社会集団が温かさと能力の高さの程度に基づいてカテゴリーわけされることを示したステレオタイプ内容モデルを思い出してください。 まず、意地悪なお金持ちは、冷たく能力の高い人に分類できます。

 


冷たく能力の高い社会集団には、妬み感情が生じます。ただし、この人物が、後にひどい目にあうのを目の当たりにしたら、おそらく「ざまあみろ」のような感想とともに妬み感情は消えてしまうです。

 


次に、心優しく貧しい人は、温かく能力の低い人に分類できます。温かく能力の低い社会集団には、同情が生じやすくなると説明しました。

 


同情は、現状の困りごとをどうにかしてあげたいという利他的な考えや行動を生み出すことがあり

ます。

 


しかし貧しいながらも夫婦仲がよく、幸運に恵まれるというこの物語の結末を聞いたら、「生活が苦しくても幸せそうで(幸せになって)よかった」と納得し、同情もしなくなるのではないでしょうか。

 


ここに「めでたし、めでたし」の理由が存在していると考えられます。

 


つまり「貧乏人と金持ち」のお話は、登場人物の属性に対して私たちが抱きがちな、どこか居心地の悪い感情を、結末によって打ち消す構造になっているのです。

 


それゆえ、登場人物の間に存在する貧富の差の問題も強く印象に残ることはないでしょう。なお、お金持ちと貧しい人が出てくる昔話はグリム童話以外にもたくさんあります。

 


「王様」が出てくる物語は貧富の差が存在する世界です。小さい頃からこのような物語に繰り返し触れることによって、貧富に基づく「格差」を当たり前のものとして受け入れるようになると同時

に、特定の社会集団のステレオタイプ形成が促される可能性もあります。

 


感想

 


たしかにこの話を聞いて、「めでたし、めでたし」と思いました。

 


逆に、意地悪な貧しい人、心豊かな金持ちだったら違和感を感じると思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『「心のクセ」に気づくには 』

 社会心理学から考える

 村山 綾

 ちくまプリマー新書

 

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