とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

「生んでくれなんて頼んでない」

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や社会学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

  

タイトル   

 


「生んでくれなんて頼んでない」

 


「生んでくれなんて頼んでない」。

 


この言葉を、親に向かって言ってしまったことがある人はいるでしょうか。 

 


あるいは、言いたいと思ったことがある人はいるでしょうか。

 


もし言ってしまったとしたら、おそらく親御さんは傷ついたことでしょう。

 


「なんてひどいことを言うんだ」と怒ったかもしれません。

 


「育ててやったのに」と悲しんだかもしれません。

 


周りの大人からは「親不孝者」とたしなめられたかもしれません。

 


テレビドラマや映画では、この言葉を言う子どもは、たいてい 反抗期の問題児として描かれます。

 


親に感謝できない、わがままな子どもというイメージです。

 


学校でも、「親に感謝しましょう」「お父さん、お母さん、ありがとう」という教育が行われます。

 


学校行事で、親への感謝の手紙を書かされた経験がある人もいるかもしれません。

 


でも、ここで少し立ち止まって考えてみてください。

 


この「生んでくれなんて頼んでない」という言葉は、本当に「ひどい」のでしょうか。

 


冷静に考えてみると、「生んでくれなんて頼んでない」というのは、単純な事実を述ベるだけです。

 


生まれる前のあなたは、まだ存在していませんでした。

 


存在していない人が、何かを頼むことはできません。

 


だから、生んでくれと頼んだ覚えがないのは、

当たり前のことなのです。

 


頼んで生まれてきた人など、この世界に一人もいません。

 


これは、誰にでも当てはまる普遍的な事実です。

 


あなただけではありません。

 


あなたの親も、親の親も、そのまた親も、誰一人として「生んでくれ」と頼んで生まれてきた人はいないのです。

 


感想

 


生んでくれと頼んだ覚えがないのは、当たり前のことなのです。

 


頼んで生まれてきた人など、この世界に一人もいません。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、頼んで生まれてきた人はいないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『生まれてよかったか?』

 はじめての反出生主義

 小島 和男

 ちくまプリマー新書

 

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堂々と論理的に反論できない仕組み

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や社会学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

  

タイトル   

 


堂々と論理的に反論できない仕組み

 


普通の会話でも、こうした傾向が強いのであるから、会議となると、ますますこの傾向が強くでて、何のための会議であるのかわからなくなってしまう場合も多い。

 


この日本人の習性が最も大きくあらわれるのは、学会や研究会である。

 


若い学者が先輩の学者に対して堂々と反論できないことである。

 


こうした場合の、学会での反論の仕方をみると、まず、不必要な賛辞(それも最大限の敬語を羅列した)に長い時間を費やし、そのあとで、ほんのちょっびり、自分の反論を、いかにも、とるにたらないような印象を与える表現によってつけ加えたりする。

 


客観的にみると、学者にあっても真理の追求より、人間関係のリチュアルのほうが優先している、といわざるをえない。

 


私は、西欧においても、アジアにおいても、これほど不合理な学者間のやりとりを見たことがない。

 


日本人の学間に対する「なまぬるさ」(少なくとも社会的行動において)が、ここにも見られるような気がする。

 


いかにも、実力よりも肩書きの優先する学者の世界のあり方であろう。

 


感想

 


若い学者が先輩の学者に対して堂々と反論できないことである。

 


という箇所が印象に残りました。

 


学者の世界でも変わらないことに驚きました。

 


下記の本を参考にしました

 


『タテ社会の人間関係』 

 単一社会の理論

 中根千枝著

 講談社現代新書

 

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社会的強制とは

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や社会学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

  

タイトル   

 


論理的、宗教的でない道徳的社会

 


さらに興味あることは、「神」の観念自体にも、これはみられるのではなかろうか。

 


日本人にとって「神」「先」というものは、この「タテ」の線のつながりにおいてのみ求められ、抽象的な、人間世界からまったく離れた存在としての「神」の認識は、日本文化の中には求められ

ないのである。

 


極端にいえば、「神」の認識も個人の直接接触的な関係から出発しており、またそれを媒介とし、そのつながりの延長として把握されている。

 


つねに、自己との現実的な、そして人間的なつながりに、日本人の価値観が強くおかれているといえよう。

 


あまりにも人間的な――人と人との関係を何よりも優先する――道德的である。

 


すなわち、対人関係が自己を位置づける尺度となり、自己の思考を導くのである。

 


「みんながこういっているから」「他人がこうするから」「みんながこうしろというから」とい

とによって、自己の考え・行動にオリエンテーションが与えられ、また一方「すべきではない」「そう考えるのはまちがっている」「その考えは古い」とい、によって、他人の考え・行動を規制する。

 


このような方式は、つねに、その反論に対して、何ら論理的、宗教的理由づけがなく、もし、それらの発言を支えるものがあるとすれば、それは「社会の人々がそう考えている」ということである。

 


すなわち、社会的強制である。

 


社会の道徳とは、修身の本にあるのではなく、いうまでもなく、この社会的強制である。

 


したがって、その社会がおかれた条件によって、普悪の、判断は変わりうるものであり、宗教が基本的な意味で絶対性を前提としているのに対して、道德は相対的なものである。

 

 

 

感想

 


社会的強制はたしかにあると思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『タテ社会の人間関係』 

 単一社会の理論

 中根千枝著

 講談社現代新書

 

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「タテ」のつながり

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や社会学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

  

タイトル   

 


エモーショナルな「タテ」のつながり

 


個人と個人との間に理性的な、あるいは抽象的なコントラクト関係の設定が困難であるということは、人間関係が、きわめてパーソナルな、直接的な人と人との関係によって設定されるためということができよう。

 


近代企業における経営者と従業員の結びつきや、西欧的教養を身につけているとされている知識人の間においてさえ、このような「タテ」の情的な関係が強いのであるから、これがヤクザの世界の親分・子分関係となれば、論をまつまでもない。

 


親分のために殺人くらいすることは当然であろう。

 


ある保護施設の園長の言によると、ヤクザの世界を一度味わった子供が、何回連れもどしても、もどって行ってしまうのは、ヤクザの世界では、その子にとって、保護施設や里親などからは得られないような、理解と愛を受けるからであるという。

 


親分・子分関係の強さ、エモーショナルな要素は、弱い者にとって安住の世界をつくっている。

 


盛んになった新興宗教集団が、魅力的なリーダーをもち、直接接接触をエモーショナルな「タテ」の線を集団組織の基幹としていることも注目に値する。

 


「タテ線」、「親・子」関係は、その典型的なものである。

 


しっかりと組織網に入れられ、「私はもう一人ぼっちではないのだ」という浸ることができる。

 


また、古い歴史をもつ伝統的な教団といわれるものにも、これら新興宗教とは異なるが、基本的には「タテ」のつながりがみられる。

 


たとえば、真宗の門徒は、真宗という教理の共通性自体を媒介として集団をつくっているというよりも、むしろ、実際には自分の父も、祖父も門

徒であったからという「タテ」の線によって、現在の個人がささえられているといえよう。

 


信仰というような、一見抽象的なものを媒介として成立しているがごとき集団においても、それは驚くほど顕著にあらわれている。

 


また、教団組織そのものも「タテ」関係を貫いていることは、天理教の本教会・分教会組織、真宗の本寺・末寺関係などによくあらわれていること

もつけ足しておこう。

 


感想

 


ある保護施設の園長の言によると、ヤクザの世界を一度味わった子供が、何回連れもどしても、もどって行ってしまうのは、ヤクザの世界では、その子にとって、保護施設や里親などからは得られないような、理解と愛を受けるからであるという。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


意外な事実でした。

 


下記の本を参考にしました

 


『タテ社会の人間関係』 

 単一社会の理論

 中根千枝著

 講談社現代新書

 

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西欧の主従関係

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や社会学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

  

タイトル   

 


ニ君にまみえた西欧とまみえずの日本

 


コントラクト精神の有無ということは、これら経済的·文化的変動、歴史的推移などというレベルをこえたところに起因していると思われるほど根強いものに通ずるのではないかと思われる。

 


それは、中世の主従関係というものを西欧と日本を対比してみるとよくわかる。

 


「三君にまみえず」といわれるように、一生のうち、子々孫々にいたるまで、できれば一人の、特定の主君に仕えることが理想とされ、少なくとも、一時期に同時に二人以上の主君に仕えるなどということは、日本の武士道(否日本人の普通の気持ちとしても)においては考えられないことであり、それは、しようとしても日本人にとってはたいへんむずかしいことだ。

 


ところが西欧の中世では、主従関係は、必ずしも全人間を無期限に拘束することを前提としていないために、主君を変更することができたばかりでなく、同時に一人て、二人とか三人の主君に仕えることも可能であった。

 


そしてそれは、何ら道德的非難をうけるものではなかった。

 


近代的コントラクトとは内容が異なるにしろ、西欧にはコントラクトの精神が封建時代に、はっきりみられたということができよう。

 


感想

 


西欧の中世では、主従関係は、必ずしも全人間を無期限に拘束することを前提としていないために、主君を変更することができたばかりでなく、同時に一人て、二人とか三人の主君に仕えることも可能であった。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


日本では考えられないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『タテ社会の人間関係』 

 単一社会の理論

 中根千枝著

 講談社現代新書

 

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「封建的」では片づかない人間関係

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や社会学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

  

タイトル   

 


「封建的」では片づかない人間関係

 


ヨーロッパのそれは、あくまで団長の調査団であって、団員は団長の仕事を完成するために、各ミッションを受けもつにすぎない。

 


調査を終わり帰国して、調査団が解散するとともに、団長・団員・個人・他人となる。

 


一方、日本ではその共同体的関係が一生つづく可能性が強うした可能性を背景として、はじめて成功裡に調査を終えることができるともいえよう。

 


ここの学術調査団のあり方にも明らかなように、親分・子分というものに象徴される人間関係は、政治家やヤクザの世界ばかりでなく、実際、進歩的思想の持ち主だとか、文化人と自他ともに認める人々や、大学で西欧の経済や社会について講義をしている教授たち、あるいは最先端をゆく大企業の中で働いている人々の中にも、みられることが指摘できるのである。

 


そして、この根強い人間関係のあり方というものは、決して、従来説明されてきたような封建的などという簡単なものではないし、工業化とか西欧文化の影響によって簡単に是正されるものではな

い。

 


感想

 


親分・子分というものに象徴される人間関係は、政治家やヤクザの世界ばかりでなく、いたるところに見られるという。

 


たしかにそう感じます。

 


下記の本を参考にしました

 


『タテ社会の人間関係』 

 単一社会の理論

 中根千枝著

 講談社現代新書

 

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日本のリーダーの主要任務は和の維持

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や社会学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

  

タイトル   

 


日本のリーダーの主要任務は和の維持

 


しかるに、日本の学術調査団にあっては、まず、コントラクト形式などをとって寄り合い世帯的団員構成をもった場合、ほとんど例外なく失敗を招く。

 


失敗とまでいかなくとも、仕事の能率は悪く、感情的な人間関係にすっかり精力を使われ、予定した仕事が少しもスムーズに運ばず、ものすごい苦労をする。

 


こうした調査団はたいてい仲間割れをしており、団長は悪口雑言の対象以外の何物でもなくなってしまう。

 


日本では、立派な(?)大学教授も、現地人や外国人の前で喧嘩をし、いがみあって汚名を土地に残してしまうような結果となる。

 


これではどんなに優秀な団員からなり、十分な費用をもっていても、仕事の成果はさっぱりあがらないのである。

 


これに対して、リーダーが長老格の教授で、その愛弟子ばかりを団員とした調査団は、うまくいっている。

 


こうした隊では、どんなに貧しい調査費でも、どんなに苦しい環境にあっても、を遂行しうるのである。

 


それは、われわれの団長(師)のためにはあらゆる

犠牲をいとわないといううるわしい(日本的な意味)積極性が団員にあり、一方、「かわいい奴らだ」という限りない弟子へのいつくしみにさえられた団長の思いやりがある。

 


関係にあっては、団長の力ももちろんあるが、団員によって団長が動かされんないが、相当あるのが普通である。

 

 

 

実際、リーダーの権限はヨーロッパの場合よりずっと小さくなっている。

 


したがって、学間的に非常にすぐれ、才能のあるリーダーが、それを十分発揮することができない場合が多い。

 


団長の存在理由は、調査を指導する、あるいは自分的を達成するというよりも、むしろ人間関係の繋となって、その和を保つということにある。

 


感想

 


団長の存在理由は、調査を指導する、あるいは自分的を達成するというよりも、むしろ人間関係の繋となって、その和を保つということにある。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


協調性の大事さを改めて感じました。

 


下記の本を参考にしました

 


『タテ社会の人間関係』 

 単一社会の理論

 中根千枝著

 講談社現代新書

 

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