こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
能力平等観
日本の会社組織における序列は、長い間、年功序列制度が特徴でした。能力主義の導入により、年功序列制度の基盤は揺らぎ掘り崩されることになりました。
特に1991年のバブル経済崩壊がきっかけです。成果主義と能力主義に注目する企業が急増したか
らです。
それまでは個人の能力差を克明に判定し反映する雇用制度は定着しませんでした。一般の人々も個人の能力差に注目することが少なかったといえます。
この問題を社会科学的分析の俎上に載せたのは『タテ社会の人間関係』(1967年)を著した社会
人類学者の中根千枝氏です。
彼女は次のように言います。
伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が根強く存在してる。
ここには「誰でもやればできるんだ」=「誰でも頑張ればできるんだ」という「頑張り」・努力主義と能力平等観との結合が見られます。
この能力平等観の底にあるのは、「極端な、ある意味では素朴(プリミティブ)ともいえるような、人間平等主義(無差別悪平等というものに通ずる、理性的立場からというよりは、感情的に要求されるもの)」です。
さらに中根氏は、この根強い平等主義は、個々人に(能力のある者にも、ない者にも)自信をもたせ、努力を惜しまず続けさせるところに大きな長所があるといえよう。
[中略]/金持ちの息子は苦労がないから、おめでたく、バカで、刻苦勉励(力を尽くし、大変な苦労をして、学問などにつとめはげむこと〈『広辞苑』より引用者注〉)型が出世するという社会的イメージが、日本人の常識の底流となっていると述べています。
ここからも、日本でいかに「頑張り」・努力主義が根強いかいえます。
そこで、この「能力平等観」すなわち人間の能力は生まれつきあまり違わないという見方に注目してみましょう。
この見方は日本の教育について論じられる時にも取り上げられることがあります。
苅谷剛彦氏は「成績の差を生まれながらの能力の違いとして固定的に見るのではなく生徒の努力やがんばりによって変わりうるものと見る」能力平等観のもとでは、「だれでもがんばれば「100点」をとれる」とされ、生徒はみな「のびゆく可能性をもつ」という「能力の可変性への信仰」が存在していると、著書「大衆教育社会のゆくえ」
(1995年)で説明しています。
ここで争点になっているのは①能力は遺伝や家庭の文化的背景(例えば、家庭に本が多いことや、家庭内で学問的な話題が多いこと)といった「生まれ」によってある程度決まっているので、人間の能力はそれぞれ異なっている、すなわち能力は不平等に授けられているとみなす「能力素質説」=「能力不平等観」か②学力差は生まれながらの素質の違いではなく、生得的能力においては決定的ともいえる差異がないと見なすかです。
「能力不平等観」は、アメリカ、イギリス、フランスなど欧米で見られます。
これら欧米の国々では、能力が「生まれ」によってある程度決まっているという「能力素質説」 「能力不平等観」が強いといえます。
これはアメリカとイギリスでIQ(知能指数)を測定する知能テストが広く受け入れられていることにも現れていて、 ギフテッド gifted 教育= 潜在能力の高い児童の教育が実施されています。英語の動詞 gift には「授ける」という意味があります。
欧米では、能力は神(あるいは天)から授けられた
gifted (授けられた)ものであり、その能力は一人ひとり異なることが前提にされています。
②の「能力平等観」は日本で見られます。アジアでも見られるかもしれません。例えば、日本でも1947年度から5年度までアメリカの強い影響力のもとで、主として心理学者や教育心理学者によって作成された「進学適性検査」が大学入試で実施されたことがあります。
ただ、8年間で廃止されました。 この適性検査の賛成・存続側と反対・廃止側の論理を検討した腰越滋氏は、素質の存在を認める存続側と素質を認めず努力を重視する廃止側が対立し、後者の意見が通ったため適性検査が廃止されたと分析して
います。
この分析からも日本では「能力素質脱」が受け入れられにくいことが分かります。
注意してほしいのは「能力不平等観」 と 「能力平等観」のどちらが良いか悪いかを議論しているのではないということです。
確かに「平等」「不平等」という言葉を使うと、現代の民主主義社会では「平等」の方が良いように感じられます。
それは「平等」が民主主義理念の根幹を成しているからです。苅谷氏が言うように、「能力平等観」を認めることが(例えば出身家庭の文化的環境の差といった) 「生まれ」による「不平等」を隠蔽することにつながることにも留意しなければなりません。
どのような家庭に生まれたのかによって、学校での成績が違うといった事実は、アメリカのように能力の違いを重視している社会では問題とされやすいのに、日本のように努力を重視する社会ではあまり問題にされない。
(天野郁夫編『教育への問い」所収の論文「能力の見え方・見られ方」)
感想
能力平等観は、個々人に(能力のある者にも、ない者にも)自信をもたせ、努力を惜しまず続けさせるところに大きな長所があるという所がおもしろいと思いました。
たしかに、努力を惜しまず続ける人もいると思います。
下記の本を參考にしました
『「頑張る」「頑張れ」はどこへいく』
努力主義の明暗
大川清文著
帝京新書
![flier(フライヤー)](https://h.accesstrade.net/sp/rr?rk=0100mog000jxhc)