とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

なぜ頑張るのか

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


制度的要因

 


「能力平等観」および「同調的個人主義」が日本における「頑張り」重視と関連があると論じてきました。

 


これらは文化的要因、すなわち「頑張り」の背景を成す要因です。 文化的要因は確かにそうした文化を共有する人々に影響を与えるとはいえ、人々に直接働き掛けみんなを「頑張らせる」ようにするとは一概には言えません。

 


「文化」と「制度」の相違点について考えると、文化(日本文化など)の強制力(直接働きかける力)が弱いのに対して、制度の強制力は強いと指摘することができます。

 


例えば日本文化の影響を受けていない外国人留学生)が、日本人と同じ選抜システムで受験した場合(つまり特別枠の留学生特別入試でない場合)に、日本人と同様に「頑張る」気にさせられるだろうと解釈します。

 


そこで「なぜ私たちは頑張るのか?」という問いを「何が私たちを頑張らせるのか?」というもう一つの問いに置き直してみましょう。

 


つまり、「私たちを頑張らせる」仕組み=制度を探っていくことにします。ここからは、文化が制度によって強化されるという見方から「頑張り」について深く考察した竹内洋氏の二つの著書(『選抜社会』 1988年、『日本のメリトクラシー』1995年)の議論を追っていくことにしましょう。

 


竹内氏によれば、現代社会は社会的成功が試験や面接などで「えらばれる」ことによって得られる「選抜社会」です。

 


「選抜」とは「選び抜く」ことであり、例えば「入試」が「入学者選抜試験」の略であるように、教育などの領域において「選抜」は欠かせません。

 


私たちは人生において、高校入試、大学入試、就職試験、さらには就職後も組織(官庁や企業)における昇進・昇格で「選抜」されます。「選抜は一回かぎりではなく、何回も、あるいは何十回もなされる」。

 


全員が課長や社長に昇進できるわけではありません。そして、選抜されないと「上」の地位に行けない仕組みになっています。

 


感想

 


選抜されるという制度が私たちを頑張らせるよう仕向けているようです。

 


我々は知らず知らずのうちに、この制度に踊らされていると思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『「頑張る」「頑張れ」はどこへいく』

 努力主義の明暗 

 大川清文著

 帝京新書

 

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同調的個人主義とは

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


同調的個人主義

 


なぜ私たちが「頑張る」のかについて、もう一つの文化的要因が考えられます。

 


それは日本文化に根強く存在する「同調主義」です。この点について多田道太郎氏が著書『しぐさの日本文化』(1972年)で興味深い指摘をしています。

 


この言葉の歴史についての古典的研究は、多田氏によって進められました。

 


1924(大正13)年生まれの本人の記憶によれば、昔、「頑張る」はそれほど使われることはありませんでした。

 


使われても「我に張る」=「我意を固執してゆずらない」ことを言い、「エゴを主張する」ことで「悪い意味で使われました。

 


なぜなら「頑張るというのは、共同体の成員の中で、風変わりな自己を主張することであり、共同体のまとまりのため、具合のわるいこと」であったためです。

 


「頑張る」が好感をもたれ、一般化したのは昭和になってからです。

 


NHKのアナウンサーがベルリン五輪(1936年)で「前畑ガンバレ」と思わず絶叫し、その素朴な流露が国民の胸を打って、「頑張る」は市民権を得たとされました。

 


前畑秀子は女子200m平泳ぎで日本女性初の金メダルを獲得しました。他方で「前畑ガンバレ」に対する異論を斎藤兆史氏が「努力論」(2007年)で述べています。

 


標準的な言語使用を心掛けているはずのアナウンサーが、いくら興奮していたとはいえ、あれだけ「頑張れ」を連発していたのである。

 


そのころすでに現在と同じ意味で使われていたと考えるほうが自然であろう。

 


とりわけ戦後、個人主義がほぼ公認のイデオロギーとなると、頑張るということばの隆盛を見るにいたった。

 


「おたがいに頑張ろう」とは、みんなが、たがいにはげましあって我をつらぬくということだ。いわば、同調的個人主義とでもいったものだ。

 


「みんなが、たがいにはげましあって」の部分が「同調的」であり、「我をつらぬく」の部分が「個人主義」に当たり、両方を合わせて「同調的個人主義」として解釈することができます。

 


戦後の日本ではアメリカ化が進み、それに伴い個人主義化も進行します。

 


その際、戦前まで日本に根強く存在した集団主義・同調主義が、戦後になってからその対極にある個人主義に変化したと見るよりも、従来の同調主義が個人主義の下支えをしたと見る方が良いというのが多田氏の見方です。

 


「同調」とは「他人の主張に自分の意見を一致さ

せること」(『広辞苑』)を意味し、さらに、「同調」は現在の言葉でいえば、「空気を読む」ことに通じています。

 


同調主義から「同調的個人主義」への変化に際して「頑張る」がいわば「接ぎ木」あるいは「接着剤」の機能を果たしたと見ることもできるので

はないでしょうか。

 


この変化と「頑張る」の一般化はマッチしていると考えられます。

 


そして「おたがいに頑張」っている私たち、いわば「頑張りの共同体(コミュニティ)」こそ、私たちを規制する共同体であったのではないでしょうか。

 


日本における同調主義の歴史的起源を考えれば、「「頑張り」の構造』(1987年)を著した天沼 香

氏の言うように、農民が人口の過半数を占めるなかで、水田稲作農耕が行われていたことと恐らく無関係でないでしょう。

 


田植え、刈り入れ、水の管理などの共同作業があり、労働集約型であった農業社会では、同調しない者は排除されたはずです。

 


「同調しない者は排除された」ことについては、「村八分」が関連します。

 


村八分」とは、「江戸時代以降、村民に規約違反などの行為があった時、全村が申合せにより、

その家との交際や取引などを断つ私的制裁。

 


転じて、一般に仲間はずれにすることにもいう」(『広辞苑』)を意味します。村の十個のつきあいのうち、火事と葬式以外の八個のつきあいを断つことをいいます。

 


また、戦時下に同調しなかった者は「非国民」、つまり「国家を裏切るような行為をする者」(同)と呼ばれました。

 


そうした流れが背景にあったことも含めて、同調主義から派生した戦後の「同調的個人主義」が、現代の「頑張る」に関連していることを指摘しておきたいと思います。

 


感想

 


同調的個人主義という言葉は矛盾しているようでが、そうではないようです。

 

 

 

 


下記の本を參考にしました

 


『「頑張る」「頑張れ」はどこへいく』

 努力主義の明暗 

 大川清文著

 帝京新書

 

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能力平等観

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


能力平等観

 


日本の会社組織における序列は、長い間、年功序列制度が特徴でした。能力主義の導入により、年功序列制度の基盤は揺らぎ掘り崩されることになりました。

 


特に1991年のバブル経済崩壊がきっかけです。成果主義能力主義に注目する企業が急増したか

らです。

 


それまでは個人の能力差を克明に判定し反映する雇用制度は定着しませんでした。一般の人々も個人の能力差に注目することが少なかったといえます。

 


この問題を社会科学的分析の俎上に載せたのは『タテ社会の人間関係』(1967年)を著した社会

人類学者の中根千枝氏です。

 


彼女は次のように言います。

 


伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が根強く存在してる。

 


ここには「誰でもやればできるんだ」=「誰でも頑張ればできるんだ」という「頑張り」・努力主義と能力平等観との結合が見られます。

 


この能力平等観の底にあるのは、「極端な、ある意味では素朴(プリミティブ)ともいえるような、人間平等主義(無差別悪平等というものに通ずる、理性的立場からというよりは、感情的に要求されるもの)」です。

 


さらに中根氏は、この根強い平等主義は、個々人に(能力のある者にも、ない者にも)自信をもたせ、努力を惜しまず続けさせるところに大きな長所があるといえよう。

 


[中略]/金持ちの息子は苦労がないから、おめでたく、バカで、刻苦勉励(力を尽くし、大変な苦労をして、学問などにつとめはげむこと〈『広辞苑』より引用者注〉)型が出世するという社会的イメージが、日本人の常識の底流となっていると述べています。

 


ここからも、日本でいかに「頑張り」・努力主義が根強いかいえます。

 


そこで、この「能力平等観」すなわち人間の能力は生まれつきあまり違わないという見方に注目してみましょう。

 


この見方は日本の教育について論じられる時にも取り上げられることがあります。

 


苅谷剛彦氏は「成績の差を生まれながらの能力の違いとして固定的に見るのではなく生徒の努力やがんばりによって変わりうるものと見る」能力平等観のもとでは、「だれでもがんばれば「100点」をとれる」とされ、生徒はみな「のびゆく可能性をもつ」という「能力の可変性への信仰」が存在していると、著書「大衆教育社会のゆくえ」

(1995年)で説明しています。

 


ここで争点になっているのは①能力は遺伝や家庭の文化的背景(例えば、家庭に本が多いことや、家庭内で学問的な話題が多いこと)といった「生まれ」によってある程度決まっているので、人間の能力はそれぞれ異なっている、すなわち能力は不平等に授けられているとみなす「能力素質説」=「能力不平等観」か②学力差は生まれながらの素質の違いではなく、生得的能力においては決定的ともいえる差異がないと見なすかです。

 


「能力不平等観」は、アメリカ、イギリス、フランスなど欧米で見られます。

 


これら欧米の国々では、能力が「生まれ」によってある程度決まっているという「能力素質説」 「能力不平等観」が強いといえます。

 


これはアメリカとイギリスでIQ(知能指数)を測定する知能テストが広く受け入れられていることにも現れていて、 ギフテッド gifted 教育= 潜在能力の高い児童の教育が実施されています。英語の動詞 gift には「授ける」という意味があります。

 


欧米では、能力は神(あるいは天)から授けられた

gifted (授けられた)ものであり、その能力は一人ひとり異なることが前提にされています。

 


②の「能力平等観」は日本で見られます。アジアでも見られるかもしれません。例えば、日本でも1947年度から5年度までアメリカの強い影響力のもとで、主として心理学者や教育心理学者によって作成された「進学適性検査」が大学入試で実施されたことがあります。

 


ただ、8年間で廃止されました。 この適性検査の賛成・存続側と反対・廃止側の論理を検討した腰越滋氏は、素質の存在を認める存続側と素質を認めず努力を重視する廃止側が対立し、後者の意見が通ったため適性検査が廃止されたと分析して

います。

 


この分析からも日本では「能力素質脱」が受け入れられにくいことが分かります。

 


注意してほしいのは「能力不平等観」 と 「能力平等観」のどちらが良いか悪いかを議論しているのではないということです。

 


確かに「平等」「不平等」という言葉を使うと、現代の民主主義社会では「平等」の方が良いように感じられます。

 


それは「平等」が民主主義理念の根幹を成しているからです。苅谷氏が言うように、「能力平等観」を認めることが(例えば出身家庭の文化的環境の差といった) 「生まれ」による「不平等」を隠蔽することにつながることにも留意しなければなりません。

 


どのような家庭に生まれたのかによって、学校での成績が違うといった事実は、アメリカのように能力の違いを重視している社会では問題とされやすいのに、日本のように努力を重視する社会ではあまり問題にされない。

 


(天野郁夫編『教育への問い」所収の論文「能力の見え方・見られ方」)

 


感想

 


能力平等観は、個々人に(能力のある者にも、ない者にも)自信をもたせ、努力を惜しまず続けさせるところに大きな長所があるという所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、努力を惜しまず続ける人もいると思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『「頑張る」「頑張れ」はどこへいく』

 努力主義の明暗 

 大川清文著

 帝京新書

 

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「頑張り」は報われるのか

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


「頑張り」は報われるのか

 

 

 

日本の歴史の概要を振り返ると、前近代(江戸時代まで)は身分制=世襲制により、親の跡を継ぐのが原則であり、努力の余地が少なかったといえます。

 


いくら努力しても家柄が良くなければ「上」の地位へ行けませんでした。近代(明治期以降)になると身分制が廃止され、職業選択の自由が認められ、必ずしも親の跡を継がなくてもよくなりました。

 


個人の能力や「頑張り」(=努力次第で出世 (上昇移動)することも可能な世の中になったわけです。

 


とはいえ、昭和戦前期までは「頑張り」にはまだ家柄などの「生まれ」の制約が大きくありました。

 


戦後(第二次世界大戦後)になって、「頑張り」はさらに広がりを見せ、「頑張れ」「頑張ろう」が合言葉の一つになりました。

 


高度成長期からバブル期までは「頑張り」が報われる機会は多かったといえます。

 


つまり「頑張り」のコストパフォーマンスが高かったということです。

 


バブル崩壊後の日本社会ではいくら「頑張って」も報われないことが、クローズアップされました コストパフォーマンスが低下したわけです。

 


これは「格差社会」の断面を表しています。そして資産家である親の跡を継ぐ「二世」にはかなわないと考える人が増えました。

 


感想

 


たしかに、昔の方が「頑張り」のコストパフォーマンスが高かった気がします。

 


下記の本を參考にしました

 


『「頑張る」「頑張れ」はどこへいく』

 努力主義の明暗 

 大川清文著

 帝京新書

 

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中学生用の道徳の教科書

こんにちは。冨樫純です。

 


本を紹介します。

 


①この本を選んだ理由

 


今さら感はありますが、気になったので購入しました。

 


②こんな本です

 


君たちはどう生きるか

 吉野源三郎

 岩波文庫

 

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著者がコペル少年の精神的成長に託して語り伝えようとした、少年用の倫理書、道徳教育書

 


③ こんな言葉が印象に残りました

 


人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることが出来よう。

 


お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ。

 


また、人間である以上、誰だって自分の才能をのばし、その才能に応じて 働いてゆけるのが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やり切れなく思うのだ。

 


人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、人間がもともと、憎みあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。

 


また、元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。

 


およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつら感じるということは、人間が本来そんなみじめなものであってはならないからなんだ。

 


コペル君。僕たちは、自分の苦しみや悲しみから、いつでも、こういう知識を汲み出して来なければいけないんだよ。

 


(本文より引用)

 


④この本が気になった方への2冊はこちら

 


君たちはどう生きるかの哲学』

 上原 隆著

 幻冬舎新書

 


『別冊NHK100分de名著 読書の学校 』

 池上彰 特別授業 『君たちはどう生きるか

 教養・文化シリーズ

 池上 彰

 NHK出版

 


興味を持ってくれた方はいるでしょうか?

興味を持った方は、是非読んでみてください。

 

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芸術とは

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


生命維持

 


絵画などの典型的な芸術作品は、生活をより豊かにしてくれるものである。

 


だが、生きていくうえで絶対必要なものではない。

 


ときどき、食費を削って芸術にのめり込んで健康を害してしまう人もいるが、 そうした人はかなり特殊であり、多くの人は芸術がなく、ても生活していける。

 


これに対し料理は生きるために不可欠なものである。芸術とは生活をより豊かにしてくれるもののことであり、生活に不可欠な料理は芸術に該当しないのではないだろうか。

 


だが、この考えは説得的でない。というのも、普段私たちが食べたり飲んだりしているものも、生活をより豊かにするものだと考えられるからである。

 


たとえば、インスタントラーメンを考えてみよう。それこそ栄養摂取のためのもので、芸術ではないと思われるかもしれない。

 


お湯を入れて三分から五分待つだけで手軽に食べられるし、非常食として備蓄されるものでもある。

 


だが、私たちが口にするインスタントラーメンは、手軽さだけでなく、よりおいしく味わえるための工夫が積み重ねられてできたものである。

 


昔よりもよりおいしくなっているのだ。インスタントラーメンを作っている企業の商品開発史を調べれば、そうした工夫や努力がすぐ見つかるだろう。

 


また、インスタントラーメンを作っている企業はいくつもあるし、さらには、インスタントラーメン同様に手軽に食べられるものはたくさんある(冷凍食品など)。

 


こうした競合が多いなか自社のインスタントラーメンを買ってもらおうと思ったら、よりおいしい商品を開発しなければならない。

 


もちろん、栄養価や価格の安さ、調理の手軽さも考慮すべきものであり、どれを優先するか選択の余地はある。

 


しかし、同じくらい栄養があって安くて手軽にで

きるなら、なるべくおいしいものが良い。さらには、おいしさを追求するあまり健康を害するものになってしまっているものもあるかもしれない。

 


こうした点を考えると、インスタントラーメンですら栄養摂取のためのものという領域を超え出ているとも言える。

 


むしろ、絵画や彫刻と同じく、それを賞味して楽しみ、生活を豊かにするためのものになっているのではないだろうか。

 


これに対して、次のように再反論されるかもしれない。確かに私たちが普段口にしている料理は単なる栄養摂取のためのものというレベルを超えている。

 


だが、依然として生命維持から切り離されたものではない。料理をすべて奪われるとすぐ死んでしまうが、芸術をすべて奪われてもそうはならない(ストレスで寿命が短くなるかもしれないが、芸術を奪われたことが直接的な死因になるわけではない)。

 


どちらも生活をより豊かにしてくれるとしても、料理はどこまでいっても生命維持から切り離せないのである。

 


しかし、芸術とは生命維持から完全に切り離せるものではないだろうか。

 


だが、この考えには明らかな反例がある。 それは衣服や建築物だ。それらをすべて奪われると、夏には脱水症状で命を落とし、冬には凍死してしまう。

 


衣服や建築物は生命維持に欠かせないものだ。しかし、同時に衣服や建築物は芸術でもある。

 


フィラデルフィア美術館に収蔵されたグレース・ケリーのウェディングドレスや、バチカンのサン=ピエトロ大聖堂が芸術であることを否定する人はそうはいないだろう。

 


それらは暑さや寒さを防ぐことが第一の目的ではないとはいえ、衣服や建築物であることには変わりない。

 


そうであるなら、生命維持と密接に関わるものでありながら、芸術でもあるものが現に存在していることになる。

 


したがって、生命維持と切り離せないものは芸術ではないという考えは間違っているにしろ料理は、服や建築物と同じような芸術だと理解することができるのではないだろうか。

 

 

 

感想

 


何が芸術か考えさせられる議論だと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『美味しい』とは何か    

 食からひもとく美学入門

 源河 亨

 中公新書

 

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自然は芸術か

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


自然も芸術?

 


記述的意味の「芸術」から除外されるものを挙げてみよう。

 


わかりやすいのは自然物だ。 夕焼けに染まる景色、穏やかなさざ波の音、人を圧倒する巨大な滝、といったものである。

 


これらが芸術でないのは、どれも自然物だからである。

 


というのも、記述的意味での「芸術」は、最低限、人が作り出した人工物でなければならないからだ。

 


ときに雄大な景色も「芸術的」と言われるが、そのときの「芸術」は評価的意味で使われているだろう。

 


雄大な景色は他の景色よりも優れていると賞賛されているのである。

 


他方で、何の変哲もないつまらない風景は、記述的な意味で芸術でないだけでなく評価的な意味でも芸術ではないということになる。

 


人工物でもなく、高く評価されるものでもないからだ。

 


何の変哲もない風景は記述的にも評価的にも芸術ではないと述べたが、これとは反対に、記述的にも評価的にも芸術と呼べるものもある。

 


たとえば、傑作とされる名画は、記述的な意味での芸術に属するもののなかで他よりも優れている点で、評価的な意味でも芸術である。

 


以上のように「芸術」には異なる二つの意味が区別できるが、こうした区別は「芸術」という言葉だけにあるのではない。

 


さまざまな言葉が評価的な意味で使われたり記述的な意味で使われたりする場合がある。

 


たとえば「ラーメン」の場合でもそうだ。誰かが「あの店のラーメンはラーメンじゃない」と言っている場面を考えてみよう。

 


文字通りに理解することの発言は矛盾しているが、二つの意味を区別すると矛盾はなくなる。

 


最初の「ラーメン」は記述的意味で用いられ、二番目の「ラーメン」が評価的意味で使われている。

 


つまり、「あの店のラーメンは標準以下のものである」と言われているのだ。

 


他にも、「流行を取り入れただけの音楽など音楽ではない」や「一本勝ち以外は柔道ではない」など、評価的意味と記述的意味を区別して理解すべき例はたくさんあるだろう。

 


感想

 


「あの店のラーメンはラーメンじゃない」と言っている場面を考えてみよう。

 


文字通りに理解することの発言は矛盾しているが、二つの意味を区別すると矛盾はなくなる。

 


最初の「ラーメン」は記述的意味で用いられ、二番目の「ラーメン」が評価的意味で使われている、という箇所が特におもしろいと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『美味しい』とは何か    

 食からひもとく美学入門

 源河 亨

 中公新書

 

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