とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

政府はどこまで介入すべきか

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


「自由放任(レッセ・フェール)」と「新自由主義(ネオリベラリズム)」

 


リバタリアニズムとの関係の有無が問題となる二つの言葉について述べたい。

 


一つ目は経済的自由主義について一八世紀のフランス以降使われている「自由放任(レッセ・フェール)」である。

 


リバタリアンの中でこの言葉を嫌う人は、「リバタリアニズム」という言葉を好まない人以上に多い。たとえばハイエクがそうである。

 


彼らがそれを嫌うのは、自由市場は何らかのルールを前提にしているのに、「レッセ・フェール」は市場がルール無用の無法状態であるかのように誤解させる、という理由による。

 


しかしレッセ・フェールを唱えた人々は、決していかなるルールも無用だと言ったわけです。

 


自由市場は私的所有権や契約の自由、暴力や詐欺や脅迫の禁止といった一般的で中立的な私的自治のルールから構成されていて、リバタリアンはそのルールの強制には反対しない。

 


むしろその強制こそが、政府のなすべき(数少ない) 任務の中で最も重要なものであると考える。

 


レッセ・フェール論者が反対するのは、それ以外の理由、たとえば経済的不平等の除去、特定の産業の保護育成、物価の安定、景気対策、雇用計画といった理由によって、政府が市場に介入することである。

 


同じように政府が行うにしても、自由市場の維持と介入的な産業政策・社会政策・経済政策・金融政策とは全く別物であって、フッセ・フェールは後者を排斥するが、前者を認める、あるいは要請する。

 


リバタリアンな「政策」とは、大部分の場合、諸個人の自由の確保以外のものでない。だからリバタリアニズムとレッセ・フェールを結びつけるのは正当であり、リバタリアニズムは「自由放任主

義」と訳すこともできる。

 


感想

 


どこを最低限のルールにするかという問題は残りますが、ルールは必要だと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

flier(フライヤー)