とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

リバタリアニズムは弱者を無視する思想か

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


リバタリアニズムは特異な人間像を前提にしているか?

 


リバタリアニズムは非常に偏った人間像を前提としているという人がいる。

 


それは自己の利益の追求しか眼中になく、いかなる共同体にも伝統にも属さない、根無し草の個人を想定しているというのである。

 


この種の批判は、すでにカール・マルクスの『ユダヤ人間題に寄せて』(1844年)の中に雄弁な形で見られる。

 


マルクスはそこで、社会的結合と政治参加をする「公民」こそが真の人間だという立場から、フランスの人権宣言を次のように批判した。

 


いわゆる人権のどれ一つとして、利己的な人間、市民社会の成員としての人間、すなわち、自分自身に閉じこもり、私利と私意とに閉じこもって、共同体から分離された個人であるような人間を越え出るものではない。

 


人間は人権において類的存在とみなされたどころか、むしろ類的生活そのものである社会は、個人にとって外的な枠として、彼らの自立性の制限として現われるのである。

 


彼らを結合する唯一の紐帯は、自然的必要、欲求と私利であり、彼らの財産と彼らの利己的人身との保全である。(城塚登訳)

 


リバタリアニズムは市場だけではなく、民間の領

域全体を政府の領域と相対して重視する。

 


そこには利他的な行動も共同体の結合も存在す

る。

 


リバタリアニズムが反対するのは、社会主義国家や福祉国家におけるような、個人に対する集団的決定の押しつけに他ならない。

 

むしろ私は、リバタリアンは人間の利他性を楽観的に過大評価している傾向があると思う。

 


というのは、多くのリバタリアン社会保障を政府よりも民間に委ねよと主張するのは、税金による福祉給付や公共サービスがなくても、いやむしろない方が、民間によって私的な保障が提供されると考えているからだが、その際、自分の財産や能力だけでは十分生きていけない人々には、人々が自発的に支援の手を差し伸べると想定されているからである。

 


彼らの主張によると、かつては民間の相互扶助組織や慈善団体が困窮に対する保障を提供してきたが、福祉国家の成立後は、社会保障は私人の知ったことではなく政府に任せておけばよいと考えてきたため、それらの民間団体の活動ははるかに不活発になってしまった。

 


つまり、政府による社会保障は自由な社会における人々の利他的な活動を減少させてしまうというのである。

 


感想

 


多くのリバタリアン社会保障を政府よりも民間に委ねよと主張するのは、税金による福祉給付や公共サービスがなくても、いやむしろない方が、民間によって私的な保障が提供されると考えているからだが、その際、自分の財産や能力だけでは十分生きていけない人々には、人々が自発的に支援の手を差し伸べると想定されているからである。

 


という箇所が意外でした。

 


弱者は無視するイメージがあったので。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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