とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

移民賛成論

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


移民の自由

 


明らかに危険な人物を例外として、外国からの入国や移民も受け入れるべきである。

 


その禁止は「移動の自由」という、人身の自由の重要な構成要素を外国人に対して制限するだけでなく、これらの人々と取り引きしたり交際したりしようとする自国人の経済的・社会的自由も制

限することになる。

 


また移民のおかげで、労働力はそれが余った地域から需要のある地域に自然に移動して、一層生産的に活用されることになる。

 


移民は強制的に連行されたわけではない。

 


移民は、行った先で今よりもましな生活ができると思わなかったら、そもそも母国を離れなかっただろう。

 


かくして移民は国際的な賃金の均衡化と向上に資する。

 


それに加えて移民は多彩な文化を作り出す。

 


アメリカ合衆国が伝統的に移民を受け入れていなかったら、今日の経済的・文化的な繁栄はありえなかったろう。

 


現代の日本では高齢化と少子化にともなう将来の労働力人口の減少が問題になっているだけに、外国人労働者や移民を受け入れるべき理由はますます多くなる。

 


外国からの「不法就労者」はその労働によって日本の社会に富をもたらし、国際的には労働力をより効率的に配分している。

 


若いカップルに子供を作らせるために税金を使ってさまざまなインセンティヴを与えるよりも、外国人労働者に門戸を開く方がはるかによい。

 


ところが、リバタリアン保守主義者や社会主義者と違ってほとんど誰もが自由貿易の支持者であるにもかかわらず、モノやカネや情報でなく人が国境を越えることになると消極的な論者がいる。

 


これは奇妙なことである。定住外国人を受け入れると社会保障の費用が高騰して制度が破綻してしまうと反対されるかもしれないが、本当のリバタリアンに言わせれば、それは社会保障のレベルが高すぎることが問題なのであって、その制度を見直すべき論拠にはなっても、外国人を受け入れない理由にはならない。

 


それにそもそも移民の大部分は就労のチャンスにひかれて来るのであって、社会保障のお世話になろうとしてやってくるわけではない。

 


移民は受け入れ国の富を横取りするのではなく、富の生産に寄与するのである。大量の移民は受け入れ国の文化を変えてしまうと言われるかもしれないが、文化の純粋さの保護は政府の任務ではない。

 


一部の国の政府のように外国文化の流入や外国語の使用を禁止したり制限したりするのは、リバタリアニズムからは問題外である。

 


かりに国民の中に外国人を嫌う人々が多いということが言えても、そのことは入国や長期滞在を禁止する正当な理由にならない。

 


リバタリアニズムの立場から、外国人の流入を制約する論拠として唯一可能なのは、「自由社会が成功裏に存続するためには、単に法的なルールや制度だけでなく、私有財産の尊重や勤労意欲、契約意識といった、暗黙のうちに共有されているエートスの存在も必要で、外国人がそれを十分に持っているかどうか疑わしい」というものである。

 


しかし、自国民にはそのようなエートスがあり、移民にはそれがないと想定するのは、ずいぶん僭越な話ではないだろうか?

 


またかりにその想定が事実に即しているとしても、その社会は自由主義エートスに欠ける人々(外国人であろうと白国人であろうと)に事実上の不利益やインフォーマルな制裁を科するだろうから、それによって必要な秩序を維持できるだろう。

 


社会を構成する人々の規範意識が常に変化し、それに伴って自由社会存続の条件も不安定さを免れないということは、リバタリアニズムが甘受しなければならないコストである。

 


感想

 


若いカップルに子供を作らせるために税金を使ってさまざまなインセンティヴを与えるよりも、外国人労働者に門戸を開く方がはるかによい。

 


という箇所がおもしろいと思います。

 


税金でインセンティブを与える効果はほとんどないと思うからです。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

 

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