とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

国家とは

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


「民間」対「政府」あるいは「社会」対「国家」

 


結局リバタリアンにとって重要なのは、市場と非市場の区別ではなく、市場と社交の両方を含む、民間の領域と政府の領域との区別である。

 


なぜなら、民間の領域は自己所有権に基づく個人的自由が発揮される領域だが、政府の領域はそれが(時には不正に)制限される領域だからである。

 


前者は各人が自分の負担の下に行動する領域であり、後者は各人が他人の負担の下に行動する領域である。

 


これを人間集団の区別の点から言えば、重要なのは営利団体非営利団体の区別ではなく、公法人と民間団体の区別である。

 


民間と政府の区別は、別の表現を使えば、社会と国家の区別である。

 


社会と国家はしばしば「私」に対する「公」として混同されがちで、日本語には「国家社会」という表現もあるが、両者ははっきりと区別すべきだろう。

 


社会とは個々人とその行動の総体である。

 


ちなみにリバタリアンは、その中でも非暴力的な協力関係だけを「社会」と呼ぶことが多い。

 


政府と比較した社会の重要性を指摘するものとしては、トマス・ペイン 『人間の権利』第二部第一章を参照されたい。

 


社会の内部には、市場やさまざまな共同体が混在する。これに対して、国家は普通の体に認められていない特権と権力を持った、特定の人々からなる制度である。

 


あるいは、19世紀前半のフランスの自由主義者バスティアの後の公共選択学派を思わせる言い方によれば、「国家とは、それによって誰もが他の誰もの支出によって暮らそうとする、巨大な擬制的実体である」。

 


そのことは君主制国家であろうが、国民全体が主

権者である民主主義国家であろうが変わらない。

 


社会と国家のこの区別によれば、「社会政策」とか「社会主義」といった表現も不適当ということになる。

 


その実態は、国家が社会に介入する政策であり、主義だからである。

 


なお、個人の自由を尊重する社会はしばしば 「市民社会 (civil society)」 とも呼ばれるが、「市民」には昔から「主体的に政治に参加する人」という含みがあるから、政治の領域を狭く限定しようとするリバタリアニズムはこの言葉を避ける方が賢明である。

 


感想

 


「国家とは、それによって誰もが他の誰もの支出によって暮らそうとする、巨大な擬制的実体である」という箇所がおもしろいと思いました。

 


税金を強制的に集め、使い道を分かりにくくしていると思うので、そう感じます。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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