とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

遺産は誰のものか?

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


遺産は誰のものか?

 


家族に関する問題の中で、遺産相続というテーマを外すことはできない。

 


本書はリバタリアニズムの中で、標準的な見解あるいは有力な見解を肯定的に紹介しているが、この問題については、かなり異端的な見解を主張したい。

 


大部分のリバタリアンは、私有財産権の尊重を主張し、相続への課税に対して批判的である。

 


しかし私は、リバタリアニズムの立場からは、相続税は一番正当化しやすい税だと考える。

 


なぜなら、法的にどんな言い方をするとしても、実態として相続は、死後自分の遺産を処分する権限を認める制度だが(遺留分は例外)、そもそも何の意思も持たない死者は行為者たりえないから、自然権の主体たりえない、と考えるべきだからで

ある。

 


リバタリアニズムは人々の自由を尊重するものだが、死者はもはや行為主体ではなく、自由も不自由もないのである。

 


それゆえ死者の遺産には誰も正当に権限を持っているとは言いにくい。

 


それでは無主物になると考えるべきか?

 


そう考えることにも理由はある。

 


しかし、リバタリアンがたとえ最小国家ではあっても、何らかの政府の必要性を認め、強制的な課税もやむなしと考えるならば、さまざまな税の中で相続税が一番正当化しやすい。

 


なぜならそれは、正当な所有者がいない財産を取り上げる税だからである。

 


なおこれに対して、財産処分者が生きている贈与税ははるかに正当化しがたい。

 


常考えられているように相続税贈与税を同質の制度とみなすべきではない。

 


リバタリアンに限らず多くの人々は、遺贈する権利、相続させる権利を贈与する権利と同様、所有権に当然含まれる権利だと考えているようだが、贈与はまだ生きている所有者がするのに対し、相続させるのは死後である。

 


死者は自然権の権利主体でないと考えるならば、死後の遺産の処分の権限まで認めるべきではない。

 


以上の理由から、私は一般の見解に反して、リバタリアニズムからも高率の相続税は正当化できると考える。

 


笠井潔やデイヴィッド・ゴティエや左翼リバタリアンも、相続制度の廃止や制限を主張しているが、私のように生者と死者との道徳的異質性を強調するというよりも、相続による社会的不公正を是正するという目的から、そう主張しているようだ。

 


その帰結として、私と違ってこれらの論者は生前の贈与への制限も認めるだろう。

 


たとえばゴティエはこう言っている。

 


市場での相互作用や協力的相互作用にとって必要なのは所有物を排他的に使用する権利であり、贈与や遺贈によって所有物を処分する権利はこのような排他的使用権の構成部分ではない。

 


贈与や遺贈の権利の存在根拠は、特定の他人に対する気づかいを前提とするような財の処分への配慮に依存している。

 


そしてこのような前提は市場にとって無縁であり、協力にとって不要である。(『合意による道徳』 第九章)

 


だが多くの人々は自分一人のためだけでなく、家族や自分にとって重要な人や団体に財産を与えたり使わせたりすることも目的として働くのだから、市場経済が機能するためには、対価を伴う市場取引だけでなく、財の無償の譲渡も可能でなければならない。

 


そのためには生前の贈与は自由に認めるべきだ――だからといって死後の遺贈まで認める必要は

ないが――というのが私の考えである。

 


感想

 


遺産は誰のものか、というタイトルが面白そうだと思いました。

 


また、税金としても一番取りやすいと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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