こんにちは。冨樫純です。
「新型官僚」についてのコラムを紹介します。
縦割り行政と批判が多い中央省庁が、「新型官僚」の活躍により、変わりつつあるのかと思いました。
現在ではどういう意識なのかわかりませんが。
霞ヶ関でいま注目すべき潮流が生まれている。
各庁に『新型官僚』と思われる清新で有望な若手官僚が出始めた。
「旧タイプの伝統的な官僚たちとは違う別の道を目指そうとしている」(塩田, 209真)。
政府の審議会の委員を長く務め、官僚とも交流のある人物の指摘である。
2001(平成13) 年1月6日、中央省庁は1府21省庁体制から1府12名庁在会へと切り替えられた。
改革の構想を作ったのは、1996年11月に設置された行動書革会議である。
内関総理大臣の諸間機関でありながら、総理大臣橋本龍太郎自らが、会長に就くという変則的なしくみであった (ただし, 法制審議会の会長が法務大臣であり、前例が全くないわけではない)。
その下に会長代理として総務庁長官および委員13名が配置された。
事務局には28人の調査員がはりつけられ、半数は民間からの出向者、半数は若手の官僚である。
上で「新型官僚」と呼ばれているのは、行革会議で調査員として働いた官僚たちである。
中央省庁の数を半減させることが行政改革会議の目的であった。 そのために、各省庁ともお家の一大事と思って若手のエースを送り込んできた。
彼らは、各省庁の利益代表として行動するものと、各省庁からは期待され、マスメディア等からは警戒された。
ところが、実際には必ずしもそうではなかった。
ある委員は次のように回想している。
省庁の側には、調査員を通じて行革会議に省益を忍び込ませたいという期待があったかもしれないが、彼らは見事にそこを切っていた。
自分の役所のことではなく、日本全体の将来を真剣に考えていた。 ほとんどの人たちは、日本の国を変えていく作業を自分たちがやるんだという自負心を抱いていた」 (塩田,2001, 15頁)
調査員は30代後半という若さから、しからみも少なく、新しい環境でかやっていける自信もあったのであろう。
そう考えれば、単に若いから自由な発想ができた
だけであり、「新型官僚」と呼ぶのは時期尚早かもしれない。
市場競争に日々さらされた同年代の優秀な調査員に、官僚的発想を批判され、次に刺激されて、にわかに勢いづいたという側面もあろう。
官民半数、若手中心という事務局体制をつくった橋本龍太郎の作戦勝ち、と言ってもよい。
しかし、それだけではないだろう。
一方に、1990年代初頭からの一連の不祥事の発覚によって志気を低下させている官僚もいれば、他方に、現状を変えなければならないと考える官僚が少なからずいるということでもある。
調査員の人選を行ったのは各省庁の官房である。発想や価値観について、一定の見通しをつけた上での代理人たる官僚の発想は変わりつつあるのかもしれない。
下記の本を参考にしました