こんにちは。冨樫純です。
功利主義がいじめを奨励せざるを得ないような不当な結論を導くという問題点はありますが、説得力のある基準だと思います。
ロールズの『正義論』は、きわめて大部の書物であり、彼が論争相手として想定した議論は多数存在する。
なかでも、特にロールズが論敵として強く意識するのが、功利主義の議論である。
では、ロールズはなぜ、功利主義をそれほどまで問題視するのだろうか。
ロールズによれば、功利主義の最大の魅力は、それが、「最大多数の最大幸福」という、一見単純明快な正義の判定基準を提示したことにある。
この立場によれば、社会内の諸個人の幸福の度合いを、何らかの指標などを通じて知ることさえできれば、そうした諸個人の幸福の総和を最大化する社会体制こそが、正義にかなったものと判定できるからである。
こうした功利主義の議論に対して、考えられる反論は多数ある。
例えば、個人の幸福の度合いを知ることはそれほど簡単ではないであろうし、異なった個人の幸福を単純に合計できるかという問題もある。
だが、ロールズ自身が最も恐れるのは、この功利主義の正義論が、個々人の最低限の権利を抑圧してしまう可能性である。
こうした可能性を考えるために、今、10人の人間集団の中で、2人の人にいじめが行われる場合を考えてみよう。
この場合、いじめを行う側は、いじめを行うことにより、1人当たり10度の幸福を得るとする。
他方、いじめの被害に遭う者は、そのことにより、10度の幸福の損失を被るとする。
この場合、いじめを行えば、社会全体の幸福の総和は、10度×9人-10度%=80度となるが、いじめを止めれば、社会全体で得られる幸福の総和は0となり、功利主義は、いじめを奨励せざるをえなくなる。
ロールズによれば、功利主義がこうした不当な結論を導くのは、功利主義が功利の総計のみを重視し、個人に対する配分のあり方に関心をもたないからである。
確かに、功利の総計も重要ではあるが、それと同時に、人間が十分に生きるに値する豊かな生を送るためには、社会内のすべての個人が最低限度の幸福を保障されていることが不可欠である。
ある少数者がまったく幸福を実現できない社会体制は、不当な犠牲を彼らに強いている。
そして、ロールズによれば、諸個人に保障される、最低限の幸福のあり方を規定したものが、多様な人権にほかならない。
下記の本を参考にしました
『現代政治理論』 新版
川崎 修 他1名
有斐閣アルマ