とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

人身所有権と財産権

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


リバタリアニズム自己所有権

 


リバタリアニズムのもっとも顕著な特徴として「精神的自由や人身の自由だけでなく、経済的自由を尊重する」という点をあげた。

 


リバタリアニズムについての他の端的な説明は「各人は自分自身の所有者である」という「自己所有権」のテーゼと同視するものである。

 


この二つの説明は次のような方法で結びつく。

 


自己所有権テーゼは、左翼リバタリアニズムのように、自己の身体とその自由だけへの排他的支配権を主張する場合もあるが、典型的にはそれだけでなく、自己の労働の産物あるいはその代価として考えられた財産への権利を含む。

 


私は自分の人身(身体)への所有権として理解された自己所有権を「狭義の自己所有権」と呼び、自分の労働の産物とその代価としての財産の権利も含めて「広義の自己所有権」と呼ぶことにする。

 


前者の発想は「私の体は私のものだ」、後者の発想は「私の労働の成果と代価は私のものだ」と表現することができる。

 


自己所有権 (self-ownership)」という言葉は、ロック=ノージックリバタリアニズムの核心をなすテーゼとして、それを批判する 「分析的マルクス主義」の代表的な政治哲学者コーエンが使い出した言葉だが、リバタリアンたちもすぐこの便利な言葉を用いるようになった。

 


コーエンの定義によると、自己所有権テーゼは「各人は自分自身の人身と能力の道徳的に正当な所有者である。

 


それゆえ、各人は他の人々を侵害しない限りで、その能力を自分の好きなように用いる(道徳的な) 自由がある」というものである。

 


コーエンの「自己所有権」の定義は先の狭義の自己所有権に近いが、多くのリバタリアンはこの言葉で広義の自己所有権を意味するとしている。

 


彼らは私的所有権の自然権としての性質を重視するため、自己所有権の狭義と広義をあまりはっきりと区別しない傾向がある。

 


それに対してリバタリアニズムの批判者や左翼リバタリアンは、両者を峻別して、自分の身体への所有権を認めても、そこから財産権は出てこないと主張することが多い。

 


さらにコーエンを含めてラディカルな平等論者は、狭義の自己所有権テーゼさえも受け入れない。

 


平等論者が広義・狭義の自己所有権テーゼを受け入れない理由は、ある人が生まれながらに、あるいは社会的環境のおかげで、恵まれた健康や資質を持っているとしても、その人物はそれに値するわけではなくて、この事実は「道徳的な観点からは恣意的」(ロールズのよく使う表現)だから、人々の間の分配の不平等を正当化するものではない、というものである。

 


ノージックロールズのこの議論に反論して、 人が自分の身体への権限を持っているという主張は、人が自分の身体に値するとか値しないという問題ではなくて、各人が個性ある個々別々の人格として認められるためには身体所有権を出発点とせざるをえないと主張した。

 


ノージックはまた、人が自己の身体への所有権を持つならば、その果実への権利を持つのも当然だと主張した。

 


私自身は、人身所有権と労働による財産権とは確かに別の権利として区別できるが、両者は決して無関係ではなく、後者は前者を基礎にした自然な前提から導き出されるので、前者ほどではなくてもやはりその主張には強い説得力があると考えている。

 


感想

 


「人身所有権と労働による財産権とは確かに別の権利として区別できるが、両者は決して無関係ではなく、後者は前者を基礎にした自然な前提から導き出される」という筆者の意見に賛成します。

 


人身所有権と労働による財産権は全く別ものだとするには無理があると思います。

 


下記の本を参考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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