こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
選択の自由と社会的圧力
リバタリアンは個人的自由に対する国家による介入を原則的に不正だと考えるが、人々の自発的活動から生ずる社会的圧力や経済的力関係は自由の帰結として容認する、ということである。
たとえば表現の自由の中には、自分が望ましくないと考える生き方や不合理だと考える世界観を公然と批判したり、からかったり、軽蔑したりする自由も含まれている。
権力や実力の行使を含まない限り、リバタリアニズムは個々人をそのような敵対的な反応から隔離しようとするものではない。
また、企業の広告活動が消費者の欲求自体に影響するとは、資本主義の批判者がよく鬼の首でもとったかのように指摘する事実だが、そのことは消費者の欲求や信念が友人や家族の意見や、たまたま読んだ書物や雑誌の意見に影響されるのと同様、消費者の自由を何ら侵害するものではない。
消費者には、たとえば遺伝子組み換え技術を用いた製品や 労働力が安い海外で生産された製品をボイコットする自由もある。
消費者が自分の自由を行使するやり方が、後々本人から見て賢明でないものもあるだろうが、それは他人が強制すべきものではない。
人々が特定の社会的環境の中で暮らしている以上、その行動が社会から影響を受けるのは当然のことである。
それどころかむしろ、リバタリアンは、権利侵害に至らないインフォーマルな社会的制裁があるからこそ、政府が強制的に介入しなくても個人の規律や社会の秩序が保たれると考える傾向がある。
道徳の実現は政府の任務ではなくて、社会を構成
する人々の行動の結果である。
他者から何の影響も圧力も受けずに個人が選択を行うことを「自律」と呼ぶならば、リバタリアニズムは強制の欠如という意味での消極的自由を保
護するものではあっても、その意味での自律を保護するものではない。
言い換えれば、リバタリアンが最小限にとどめようとしている権力は、ミシェル・フーコーの影響を受けた人々が、日常生活の中に「ここにもある、あそこにもある」と指摘して告発するような、遍在する無定形なミクロの権力ではなくて、大文字の公的な権力である。
そして今日の世界では、その権力の重要な部分は裸の実力行使ではなくて課税である。
なぜなら課税はたとえ給料の天引きのような目立たない形を取っても、経済的自由への制約だからである。
権力を行使しているのは警察や軍隊だけではない。
むしろそれ以上に、税務署がそれを行使している。また私有財産の利用へのさまざまな規制も、見逃されやすい権力行使である。
感想
そして今日の世界では、その権力の重要な部分は裸の実力行使ではなくて課税である。
なぜなら課税はたとえ給料の天引きのような目立たない形を取っても、経済的自由への制約だからである。
という箇所がおもしろいと思いました。
課税に関しては、確かに、使われ方に疑問を感じることはあります。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進