こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
市場の中の人間関係
リバタリアニズムは、決してあらゆる人間関係を市場経済に委ねようとしているわけではない。
社会の中には市場以外にも、家族や友人関係やさまざまの共同体など、もっと緩やかなネットワークが存在する。
人は個性のない匿名的個人として市場の中で財やサービスを交換するだけでなく、それらの集団の中でも行動している。
そのような活動は、大部分の人々の生活に欠かせないものだが、経済活動とは区別される。
のみならず、信頼というものが重要な役割を果たす継続的取引はいうまでもなく、見知らぬ人同士の一時的な経済的取引でさえ、実際には幾分かの人格的関係を含んでいることが多い。
われわれはしばしば、店の店員やタクシーの運転手と世間話をする。
リバタリアニズムが最小限にとどめようとしているのは、必然的に強制を含むことになる政府であって、市場以外の人間関係一般ではない。
リバタリアニズムは、集団が個人の権利を侵害しない限り尊重する。そうしてこそ、集団を構成する人々の自由を尊重できるからである。
従って、「国家(政府) 対市場」あるいは「政治対経済」という二分法を前提として、リバタリアニズムが、それぞれの対のうち後者の優越を唱えると単純に考えるのは不正確である。
リバタリアニズムは確かに国家や政治の領域を狭く限定しようとするが、残りの民間の領域をただちに市場経済と同一視することはせず、第三の領域として、市場の外のヴォランタリーな人間関係も重視するからである。
ちなみに、この第三の領域にぴったりあてはまる言葉を探すのはなかなか難しい。
「協力」では共通の目的を持つ関係だけを意味するように思われる。
「共同体」は連帯感で結ばれた関係しか指しにくい。
「社交」という言葉が思い浮かぶが、これも違う意味で狭すぎるかもしれない。
ところで市場は、財やサービスの交換という、狭い意味での経済活動だけが行われる場ではない。
すでに述べたように、そこにも人格的交流は存在する。 そこは新しい文化や技術が生まれる場でもあれば、人々が影響を及ぼし合い、学ぶ場でもある。
市場と社交の相違はオールオアナッシングではなくて、程度の問題である。自動販売機で物を買うような、純粋に非人格的な市場取引もあれば、親類から不動産を好条件で買ったり借りたりするよ
うな、 市場と共同体の双方の性質を持った取引もある。
その一方では、親しい友人間でも金銭関係は厳格ということは多い。
民法学では純経済的な有償契約と特別の人間関係に基づく無償契約とをカテゴリカルに対立させて、無償契約は現代社会では重要な役割を果たさない、と言われることが多い。
しかし現実にはそのような二つの典型にぴったりおさまらないような契約も多い。
白から黒の間に無限に多様な明るさの灰色の領域があるように、市場と社交との間に厳格な境界線を引くことはできないし、無理に境界線を引く必要もない。
リバタリアニズムは市場を社交に対して優先させるものではない。それは両者を等しく非権力的人間関係として、尊重するのである。
感想
リバタリアニズムが最小限にとどめようとしているのは、必然的に強制を含むことになる政府であって、市場以外の人間関係一般ではない。
という箇所が印象に残りました。
勘違いしそうなところなので、余計にそう感じます。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進