こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
天然資源は誰の所有物か?
リバタリアニズムの批判者や左翼リバタリアンは、ロックの価値創造に基づく私有財産擁護論を認めようとしない。
彼らは、価値を作り出した人がなぜその価値を体現しているものへの権利を持つのか、その理由がわからないという。 根拠がないという。
だが、価値を作り出した人がそれに対する権利を持つというのは、極めて直観的にもっともな判断ではなかろうか。
批判者の多くは、天然資源は本来社会全体の共有に属するから、その配分は社会的目的に従って決定されるべきだという。
しかし天然資源はただそこに存在するだけでは、人間にとっての価値はほとんどない。
たとえば鉱物資源だったら、まずそのありかを探し出し、掘り出し、精練し、それを材料として必要としている工場に持っていかなければならないだろう。
資源の価値は労働が投入されてこそ現実化する。
そして天然資源の所有権が語られるのは、資源に価値があればこそである。ならば、資源への権限を持つ者としてふさわしいのは、その価値を生み出した者だろうか、それとも何もしなかった「社会」 全体だろうか?
説得力があるのは前者だろう。
一方、天然資源は社会全体の共有物でもなく、そもそも誰の所有にも属さないと主張する者もいる。
しかし、それなら誰も資源を継続的に利用できず、ただ現実に利用している間に限って利用できるにすぎない、ということになる。
それでは財の有効な使用はできない。毎日24時間、財を現実に利用しつづけなければ継続的に利用できないのでは、資源の長期的な利用は極めて困難だし、監視と排除のコストも大きすぎるだろう。
感想
ぼくも、資源の価値は労働が投入されてこそ現実化するという考え方に賛成です。
天然資源はただそこに存在するだけでは、人間にとっての価値はほとんどない、とぼくも思うからです。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進