こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
経済学的リバタリアニズム
現代の経済学の新古典派もオーストリア学派もシカゴ学派も市場経済を支持するが、その論拠はかなり異なる。
新古典派は、長期的に見れば市場は均衡に達し、パレート最適の意味で効率的な資源配分をもたらすから社会的に望ましい、と考える。
しかしそのためには、完全雇用や有効需要促進を目標として政府が市場に介入する必要があるという、ケインズ的発想にも賛成するから、リバタリアンとは言えない。
それどころか、このような市場観をとると、計画経済と商品市場が結合した「市場社会主義」の方が現実の自由市場よりも効率的だとか、そこまでいかなくても、自由市場と計画経済の賢明な混合が必要だ、という議論が出てきやすい。
つまり、新古典派経済学は社会主義を原理的に批判することができないのである。
新古典派と違い、ミルトン・フリードマンや「法の経済分析」の創始者であるリチャード・ポズナーに代表されるシカゴ学派は、市場へのケインズ的介入の有効性を否定するという点でリバタリアンである。
しかしシカゴ学派も、市場が長期的には均衡して有効な資源配分を達成するという市場観を新古典派と共有している。
これに対してオーストリア学派は、常に変化する不確定性に満ちた世界では、個人のそれぞれ異なった計画を調整して社会の繁栄と平和を実現するためには私有財産を認める自由市場経済しかないと考える。
そこでは新古典派的な完全情報の静的な市場観とは根本的に異なった、情報が分散して存在する動的な市場観が前提されている。
市場の意義は一物一価の均衡状態をもたらすところにあるのではなくて(その状態は現実には決して達成されない)、競争や企業家的行動という市場プロセスを通じて、中央で集められない知識が局所的に発見され、また有効に利用されていくという点にある。
新古典派は、現実の自由市場は完全情報の競争市場でないという理由によって、資源の効率的配分のための市場への政府の介入を正当化するが、オーストリア学派の発想は逆である。
それによれば、かりに完全情報が実現されていれば、効率性という点だけからすると計画経済でも構わないが、実際にはまさに市場が完全市場でありえないからこそ、知識の発見と企業家的活動を促す自由な市場経済が必要なのである。
だからミーゼスはいわゆる「社会主義計画論争」 において、社会主義は実行不可能だと主張したが、それは文字通り社会主義経済が存在できないという趣旨ではなくて、社会主義経済は資本主義経済よりも生活水準を悪化させるという趣旨だった。
オーストリア学派は今日の経済学の世界では新古典派やシカゴ学派やケインズ派に比べると少数派であるため、世論への影響力は相対的に小さいが、その理論は一層包括的で、またリバタリアニズムに調和するものである。
だがそのオーストリア学派経済学の中でも、合理主義的な制度設計の可能性を信ずるミーゼスと、自生的秩序としての伝統を尊重する保守的な後期ハイエクでは相違があって、内部ではかなりの論争がある。
ジェイムズ・ブキャナンを創始者かつ代表者とする「公共選択学派」あるいは「ヴァージニア学派」は、また別の側面からリバタリアニズムへの支持を与える。
これまでの経済学はたいてい市場における取引だけを対象にしてきたが、公共選択学派は政治過程にも経済学のアプローチを導入する点に特徴がある。
通常経済学では、私人は自己の利益の最大化をめざして行動するが、政府は公共的な目的を達成しようと行動するかのような想定がなされてきた。
しかし政府も生身の諸個人が動かしているものである。公共選択学派は政治過程に登場する政治家や役人やさらには有権者も自己の利益を追求するという現実的な前提に立って政治過程を分析する。
そこから出てくることは、いくら民主主義的な政治過程であっても、その結果、たとえばケインズ的財政政策が財政赤字のとめどない膨張を生むといった形で国民に負担を負わせる傾向があるということである。
感想
経済学では、私人は自己の利益の最大化をめざして行動するが、政府は公共的な目的を達成しようと行動するかのような想定がなされてきた。
という箇所がなるほどなと思いました。
民間企業と政府では元々目指すものが違うということを改めて感じました。
下記の本を参考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進