こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
眼球の再分配
ハリスは、最大多数の最大幸福という功利主義によって、臓器移植くじの制度を提案した。
そのため、このような制度は功利主義によってしか正当化できないと考えられがちだ。
それは間違いである。強制的臓器移植はそれ以外の思想、特に平等主義の立場から提案できるからである。
コーエンが社会主義的平等論の立場から自己所有権テーゼを綿密に検討した著書『自己所有権・自由・平等』(未邦訳)の中で想像している例を挙げよう。
眼球の移植手術がたやすくできるならば、両方の眼球が健康な人々の中から無作為で、国が選んだ人の片方の眼球を強制的に取り出し、両目とも見えない人に移植するという制度を採用すればどうか。
人々の効用の間の不平等は小さくなるだろう。これは平等を促進する再分配である。
これもコーエンが認めていることだが、おそらく左翼的な平等主義者さえ、この制度に賛成しないだろう。
だがコーエンは、首尾一貫した平等主義者は、自己所有権テーゼに妥協して眼球の再分配を斥けたりすべきでないと考える。
彼は次のような別の眼球の分配制度を想像する。
人々は眼球を待たずに生まれてくるが、誕生時に政府が支給した人工眼球を移植される。この人工眼球はその時から使い続けないと、成人時に機能しない。
ところが、人工眼球の一部には故障が起きて使い物にならなくなるものがある。この場合、前の例と同じような、眼球の強制的移植制度は許されるのではないだろうか。
それが許されないとしたら、その理由は自己所有権にあるのではない。なぜなら前述の眼球の分配と違って、この場合は、政府は人々に人工眼球を貸与しただけであって与えたわけではない、と言えるからである。
するとこちらの例において強制的移植に反対する理由は、たとえばそれが生活への深刻な介入になるといったものかもしれないが、自己所有権テーゼではありえない。
コーエンはこのように論ずる。
社会主義者であるコーエンは多くの妥協的な平等主義者と違って、自由主義に見せかけの敬意を払うこともせず、自己所有権テーゼに自覚的に反対する。この議論はなかなか巧妙である。
しかしそれがどのくらい成功しているかは、明確ではない。確かに人工眼球の場合、その再分配は自然の眼球より受け入れやすく見える。
リバタリアンは、「自然な眼球の強制的再分配は自己所有権に反する。しかし人工眼球は国から貸与されたものだから、その再分配は自己所有権に反しないので、自己所有権テーゼだけからでは反対できない」と認めるかもしれない。
あるいは「人工眼球も自己所有権の一部である。
なぜなら「貸与」されたと言っても、それは現実にしっかりと本人の身体の一部になってしまったのだから。
それに人工眼球は本人が使ったことによって現在の価値が生まれたのだから、労働によって自分のものにしたと考えることもできる」と主張するかもしれない。
感想
なぜ眼球なのかが気になりました。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進