とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

他人の評価をみる

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


他人の評価をみる

 


評価の客観性を擁護するためにまず指摘したいのは、私たちは他人の評価を気にしているのではないか、ということだ。

 


たとえば、どこで食事をしようか決める際、レビューサイトにアクセスして店の評判を参考にする人はたくさんいる。

 


また、ネットが普及する前からグルメガイドの本はたくさん出版されていた。

 


こうしたサイトや本には、「ここのラーメンは絶品」とか「ここはいまいち」といった他人の評価がたくさん掲載されている。

 


多くの人はこうした評価を参考にしてどの店に行くか決めているのではないだろうか。

 


こうした行動は評価の客観性を前提としているように思われる。 「ここのラーメンはおいしい」というレビューを読んでその店に行くとき、あなたはその評価が正しいと思っているのではないだろうか。

 


そのレビューは正しく、そのラーメンはおいしいものだと信じているからこそ、自分も食べに行くのだろう。

 


この行動の背後には、他人の評価が帰属させる性質(おいしさ)を対象(ラーメン)が実際にもっているという客観主義的な考えがあるのではないだろうか。

 


他方で、もし評価が主観的なものならどうだろうか。主観主義によると食の評価は個人的な好みの表明、主観的な感想であり、他人から「間違っている」と言われるようなものではない。

 


注意すべきなのは、こうした考えを支持すると、「他人の評価は自分の参考にならない」という主張も認める必要が出てくることだ。

 


他人からの間違いの指摘は受け入れないのに、自分に役立ちそうな意見だけ聞き入れるのは一貫性がない。

 


首尾一貫した主観主義を支持したいなら、他人の評価は(自分を否定するものでも自分に対するアドバイスでも)すべて自分の評価とは無関係だと言うべきだろう。

 


だが、多くの人々は他人のレビューを参考にしている。参考にする人が多いからこそ、これだけ多くのレビューサイトやガイド本が作られているのだろう。

 


しかし、主観主義ではこの点がうまく説明できないようにみえる。参考にならないはずのものを参考にしている人はなぜこんなに多いのか、そこが不可解になってしまうのである。

 


これに対し、「サイトや本は参考にならなかった」と言う人もいるかもしれない。「ここのラーメンはおいしい」というレビューを読んで店に行ってみたのに、まったくおいしいとは思えなかったことがある。

 


こうした失敗体験が原因となって「他人の評価は参考にならない、評価は人それぞれだ」と考え、主観主義を支持したくなった人もいるだろう。

 


しかし、注意してもらいたいことがある。それは、そうした失敗を体験したときに「他人の評価は今後一切参考にしない」と決め、レビューサイトやガイド本をまったく見なくなったのか、ということだ。

 


多くの人はそこまではいかないだろう。レビューを参考にして失敗したときには、すべてのレビューを信頼しなくなるのではなく、「このレビュアーは参考にしない」とか「このサイトは参考にしない」と思い、他のレビュアーや他のサイトを参考にするようになるのではないだろうか。

 


言い換えると、失敗体験は悪い(能力のない) レビュアーの評価を参考にしてしまったために起きたのであり、良い(適格な) レビュアーの評価を読めばうまくいったはずだと思われるのだ。

 


こうした考えを最もシンプルに説明するのは、やはり客観主義だ。つまり、良い/信頼できるレビュアーは正しい評価を下す能力がある人だが、悪い/信頼できないレビュアーは能力がなく間違った判断を下していると考えるのである。

 


正しい評価と間違った評価という区別があると認めているからこそ、レビュアーに差がつけられる。

 


正しい評価を下す能力をもつ人は参考になるが、間違った評価を下す人は参考にならないとされるのだ。

 


感想

 


失敗したくないから、他人の評価を見るというのは誰でも経験していると思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『美味しい』とは何か    

 食からひもとく美学入門

 源河 亨

 中公新書

 

flier(フライヤー)