こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
どこまでが「自分で感じたもの」か?
純粋主義を「舌のみで評価するべき」と主張する立場として定式化していた。
とはいえ、この主張はそのままでは維持できない。私たちが普段感じている味は五感すべてが働くことで得られるものだからである。
舌だけでなく、眼や耳、鼻や肌で感じたものも味を構成しているのだ。
とはいえ、純粋主義者は「舌のみ」という点は放棄してもいいと言うだろう。そこは一番大事な点ではないからだ。
純粋主義が否定したいのは、「値段が高い」「有名なシェフが作っている」「スープは丸二日煮込んでいる」といった情報が評価に影響することである。
こうした情報は自分の感覚器官を働かせて得られるものではない。むしろ、雑誌に書かれた「このラーメン屋のスープは丸二日煮込んでいる」という文字を見たり、誰かがそう言ったりしたのを聞いたりして、その言葉を頭で理解して得られるものだ。
料理名、材料の産地、値段、料理人の経歴、調理の手間暇といった情報は「自分が感じたもの」ではなく、「言葉を介して頭で理解したもの」なのである。
純粋主義の第一の目的は、こうした「言葉を介した情報」を排除することである。そのため、「舌のみ」という点は放棄しても良さそうだ。
むしろ、眼や耳を使って得られる情報も、舌を使って得られる情報と同じく、「自分が感じたもの」である。
それらも知覚によって得られる情報であり、評価の直接的な根拠として認められるだろう。
まとめると、純粋主義は「評価は知覚によって得られる情報のみに基づいて下すべき」と主張する立場として改訂できる。
感想
タイトルの通り、どこまでが「自分で感じたもの」かと、考えさせられました。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨