とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

遺産相続は生前にするべきか

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


遺産相続の根拠

 


多くのリバタリアンが、相続という制度を私的所有権の一環として安易に認めてしまうのはなぜだろうか?その原因を考えてみよう。

 


第一に、彼らは故人を財産権の点ではまだ生きているかのようにみなしているのかもしれない。

 


遺産を相続させる権利は所有権の中に当然含まれていると考えているのである。

 


しかし死者は大部分の法的関係において人格を失う。 権利というものが権利主張と密接に関係しているということを考えれば、それは当然である。

 


なお、かりに遺産を相続させる権利を故人の生前の財産権の延長(そして同時に終末)として見るならば、遺留分という制度は所有者の遺贈の自由を制限するから、それをたやすく認めることはできない。

 


この制度があるおかげで、親が一銭たりとも金を残したくないような、親不孝な子供まで遺産を獲得できてしまう。

 


あるいは、人々は死者個人だけでなく、家族をも財産の持ち主と考えているから相続を当然視するのだろうか?

 


というのは、遺産相続を当然視する人々が、遺産の受け取り手として通常考えているのは子供と配偶者だけで、それよりも遠い親族や、遺産から遺贈を受ける人や団体はあまり考えていないからである。

 


今述べた遺留分制度も、この発想を支持する。

 


経済活動、特に消費活動の単位は、個人と考えるよりも世帯と考える方が現実的である。

 


しかしリバタリアニズムは家族の道徳的・社会的・経済的意義を進んで認めるとはいえ、その権利観はあくまで個人主義的なものである。

 


夫婦も親子も道徳上、また法律上、別々の人格である。もし所有者が自分の財産を家族の共有財産にしたければ、それを生前(部分的に)家族に贈与してそうすることができる。

 


そうしなかった以上、家族が遺産を相続するのが当然だと考えるべきではない。

 


家族は故人の生前、普通は晩年に故人の面倒を見たはずだから、その代価として遺産を受けるにふさわしい、と考える人がいるかもしれない。

 


しかしその場合も、故人は生前に財産を家族に贈与できたはずである。

 


また相続権を持つのは故人の面倒を見た人ばかりではない。それに加えて、自分の老後を子供に扶養してもらわなければならない人々の多くは、大した遺産を残さないであろう一方、多額の遺産を残す金持ちは、子供に経済的に依存していなかっただろうから、生前の扶養義務と死後の遺産の大きさとは反比例する傾向さえあるだろう。

 


また私有財産制度のインセンティヴ機能を重視する人は、人は自分自身のためだけでなく、死後の家族のためも思えばこそ財産(=資源)を大切にすると主張するが、人が自分の死後の家族の経済的状態まで配慮する程度には大きな差があろう。

 


その程度に応じて、相続の範囲は制限されてもよいはずである。特子供がすでに立派に独立している場合、親は子供の状態をあまり心配しないだろう。

 


一部の論者は、人は自分の遺産が相続されないと考えると浪費してしまうだろうと主張する。しかし本人が自分の使いたい仕方で自分の財産を使い果たすことのどこが悪いのか?

 


また繰り返しになるが、人は家族の経済的状態をそれほど配慮するならば、自分が死ぬまで待たずに、生前に贈与できるのである。

 


感想

 


遺留分という制度があるおかげで、親が一銭たりとも金を残したくないような、親不孝な子供まで遺産を獲得できてしまう。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


親子関係が重視されていると感じます。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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