とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

過失がなければ責任は免れるべきか?

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


過失がなければ責任は免れるべきか?

 


しばしば近代財産法の原則として、所有権の自由あるいは不可侵性、契約の自由、過失責任主義の三つがあげられる。

 


私はリバタリアニズムを、近代だけに通用する理論ではなくもっと普遍性を持った理論として唱えている。

 


それは、不可侵とまではいかなくても強力な私的所有権と、契約の自由を提唱するものである。

 


では、過失責任についてはどうだろうか? 過失責任とは、損害の発生につき、故意か過失がある場合にだけ損害賠償責任を負うという原則である。

 


近代法は個人の自由な活動を保証するために原則として過失責任原則を取ってきたと言われる。

 


しかし、過失がなければ加害者に賠償責任が生じないとするならば、被害者は被害を甘受することになる。

 


この結果は所有権の不可侵性に反するのではないか? かりに損害の発生がたとえば経済的自由競争の結果ならば、それは「被害者」の権利を何ら侵害するものではないから、「加害者」に賠償責任がないのは当然である。

 


これに対して、損害が被害者の人身や財産への直接の侵害から生じたならば、被害者側に落ち度がない限り、加害者側の事情を考慮するまでもなく、加害者に賠償責任を負わせるのが自己所有権テーゼに合致する。

 


権利は侵害されてはならない領域だからである。

 


確かに西洋の近代法は過失責任主義を原則としてきたが、近代法が常にリバタリアニズムと調和するとは限らない。

 


過失責任主義は工場主や製造業者の利益を優先させる政治的判断だったかもしれないのだ。

 


ただし、土地や動産のような目に見える財産への権利ではなく、名誉やプライバシーの侵害とか心理的苦痛といったものに対して、無過失責任主義を取った場合は、どの程度を保護すべきかは問題となる。

 


自己所有権との関係ですでに述べたように、これらの利益の保護は、自由権の制限につながってしまうからである。

 


保護されるべき利益はなるべく人身と有体の財産に制限しなければならない。

 


感想

 


過失責任主義は当然の議論だと感じました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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