こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
言葉にできないものを言葉にするための体験
アウシュヴィッツを訪れたころ、ぼくは東大の駒場で表象文化論専攻の大学院に所属していました。
表象文化論というのは、簡単に言えば、絵画や映画、文学、建築などを「記号の構造」に焦点を当てて分析する学問です。
そんな表象文化論では、よく「表象不可能性」という問題が取り上げられます。
災害や戦争のように、あまりに深刻で複雑であるがゆえに、単純に記録に残したり物語にしたりするのでは本質が伝えられないような出来事の性格を表す言葉です。
戦後ヨーロッパの思想家たちは、第二次大戦への反省から、そんな概念を生み出しました。そこではよくナチスドイツのユダヤ人大虐殺(ホロコースト)が例に挙げられます。
ホロコーストは「表象できる」(=言葉にできる
のか。これは戦後のヨーロッパの哲学の大きなテーマでした。
東日本大震災以降ぼくが原発事故に深い関心を寄せているのも、そのような学問からの影響があります。
な悲劇ですが、大きな違いもある。
ホロコーストでは加害と被害の関係が明確なのに対して、チェルノブイリや福島の事故では、放射能と健康被害の因果関係を証明することがむずかしい。
結局は統計の解釈になってしまう。実際、事故から四半世紀が経ったいまでも、チェルノブイリの死者数については諸説ある。
福島についても、今後長く混乱が続くでしょう。
しかし、因果関係がどうであろうと、原発事故によって傷ついたひと、生活の場が奪われたひとがたくさんいることはまちがいない。
そして、そのような「科学的には言語化できない」 痛みを言葉に置き換えていくのも、また哲学の役割です。かつてヨーロッパの知識人たちが、アウシュヴィッツという表象不可能な体験、つまり「言葉にできない体験」を言葉にすることに尽力したのと同じように、ぼくもまた、たまたまではあれ福島第一原発事故のような大きな事件に遭遇したからには、似た責務を負っていると考えています。
言葉にできないものを言葉にすること。そのために大事なのは、まずは言葉にできないものを体験すること、つまり「現地に行くこと」です。
そして、できるだけ多くのひとに訪れてもらうためには「観光地化」は欠かせない。
ぼくがアウシュヴィッツに行くことができたのは、そこが観光地化していて、クラクフから定期的にバスが出ていたからです。
これは決定的に重要な事実で、これを忘れてアウシュヴィッツ経験を語っても意味がありません。
だからぼくは、たしかに観光地化でアウシュヴィッツの「本当にすごいところ」は消えるのかもしれないけれど、それでもやはり観光地化したほうがいいと考えます。
いくら俗悪な観光地になっても、それでもやはり悲劇の片鱗は残るし、その片隣でもひとの人生は十分に変わる。
そういう思いが、福島第一原発についても「観光地化」の提案に繋がっています。
感想
表象文化論に興味が湧いたので、もう少し調べてみたいと思います。
下記の本を參考にしました
『弱いつながり』
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東浩紀著