とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

家族と教育

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


家族という共同体

 


リバタリアニズムにとって、家族にいかなる地位を認めるか、 特に未成年の子供をどのように取り扱うかは難問である。

 


一方、アメリカの多くのリバタリアン、特に保守的な価値観を持つリバタリアンは、人間形成における家庭内のしつけと教育の重要性を強調して、政府からの家族の自由を主張する。

 


デイヴィッド・ボウツが『リバータリアニズム入門』の中で「家族は、私たちが世の中や道徳的諸価値を理解する際に、ほとんどのことをそこで学習する制度である」と言っているのはその代表である。

 


この種のリバタリアンは、親が自分たちの子供に対する教育の権限を持つということを当然視する。

 


この考え方によれば、親は自分たちの子供にふさわしいと思う学校を選んで学校教育を委ねることができる。

 


いや、そもそも学校教育は親や子供にとって義務でない。

 


代わりに、自宅で親自身や家庭教師が子供を教育することも自由である。

 


日本では「教育権」に関する論争で「国家の教育権」と「国民の教育権」(多くの場合、その実態は現場の教師の教育権) の二つの説が対立したが、そこでは無視されがちだった親(親一般ではなくて、それぞれの子供の親)こそが、教育の権限を持つと考えられることになる。

 


この立場では多様な私立学校の併存が理想とされ、公立学校の価値は疑問に付せられる公立学校は親の信念を無視して、国家主義集団主義や多数派の思想を子供に押しつける場だとみなされがちである。

 


また公立学校は誰もがはいれる学校であるため平等主義的傾向が強く、その結果として、要求される学力の水準は、落ちこぼれを出さないようにするため低下する。

 


さらに義務教育としての学校教育は、子供の人身の自由や結社の自由にも反すると主張できるだろう。

 


リバタリアンの中には学校教育に代えて家庭教育を推奨する人も多い。

 


塾の価値も正当に評価されるべきである。そして教科書検定制度は認められないだろう。

 


ちなみに、社会主義共同体主義者であるマイクル・ウォルツァーはその反対に、主著『正義の領分』而立書房)の中で、「公共的制度の隅」にしか私立学校の存在の余地を与えようとしない。

 


そして教師と生徒からなる「囲い込まれた教育的共同体」という性質が強い日本の公立学校を称賛する。これはこれで首尾一貫した立場である。

 


しかし私は、多くのリバタリアンの、家族に対する手放しの信頼には違和感を感じざるをえない。

 


確かに、家族は人間形成において、不可欠とまでは言わなくても極めて重要なものだろう。

 


そしてそれに対する政府の干渉は、たいていの場合家族の誰にとっても有害だろう。

 


しかしリバタリアンは個人の自由を重視する以上、子供は親の所有物ではなくて別個の人格だということも忘れてはならない。

 


そうであれば子供と親の意思や意見の対立を無視できない。

 


親に教育権があるという主張は、国家や国民一般あるいは教師にその権限があるという主張よりもリバタリアニズムに合致する。

 


だがその主張は、あらゆる親が自分の子供に教

育を与えようという意欲を持っているかのように想定しがちである。

 


しかしすべての親がそうだとは限らないのだから、親は子供に教育を与える権限を持つだけでなく、義務も負っていると考えるべきではないか?

 


また親が与えたい教育と子供が受けたいと思う教育が違う場合、親の意思が当然に優先すべきなのか?

 


家族は極めて小さい単位の共同体、しかも今日の世界においては多くの人々にとって他の何よりも重要な共同体と言えよう。

 


リバタリアニズムは一般的に、共同体からメンバが離れられるという条件の下で共同体内部の自治を認める。

 


しかし家族の場合、成人しているメンバーはそこから離れられる(たとえば子供が自活したり、夫婦が離婚したり、別居したりできる)が、未成年の子供にはそのような権利がない。

 


また、かりに未成年の子供にそんな権利が認められても、それを活用できるのはある程度成長した若者だけであって、小さい子供には役に立たないだろう。

 


だから小さな子供とその親を含む家族は、リバタリアンな社会で典型的な脱退可能な随意的共同体ではないのである。

 


感想

 


教育は学校が担うべきなのか、家族が担うべきなのか、おもしろい議論だと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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