とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

親の介護は家族がするべきか

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


老齢者の扶養

 


相続制度の根拠として、相続は家族が生前に故人(多くは親)の面倒を見たことへの見返りだという見解に批判的に) 触れた。

 


この発想を因果的に逆転して、子供が遺産を相続できないとなると、親は老後、子供に面倒を見てもらうことを期待できなくなる、と言われるかもしれない。

 


遺産相続の根拠は、家族による老齢者扶養へのインセンティヴを与えるためだということである。

 


リバタリアンの中にはこの発想に賛成する人も多いだろう。 リバタリアンは、老齢者の扶養は政府、そして究極的には納税者一般に安易に依存すべきではなく、一時的には家族が面倒を見るべきだと考えがちだからである。

 


だがなぜ、子供が老齢の親を扶養する(強制可能な)義務を負うのか、リバタリアンの立場からはそれほど明らかでない。

 


子供は成人するまで親に養育してもらったから、そのお返しに老齢の親を扶養する義務がある、という理由づけが自然に念頭に浮かぶ。

 


だが親が子供を扶養する義務は、子供が自分だけでは生きていけず、養育を必要とするという事情から来ている。

 


ところが老齢の親は、自分で老後に備えることができたし、実際にも老後に備えているのだから、そもそも扶養義務を誰かに負わせなければならないという理由は乏しい。

 


何らかの事情で自分の老後に備えなかった、あるいは備えられなかった親が、自分だけでは生活できないならば、その親を扶養する義務は政府よりも先に子供たちが負うのが公正というものかもしれないが(ここでは親が子供を養育する義務を十分に果たしたと想定する)、扶養義務の程度は最小限にとどまる。

 


「子供による老齢の親の扶養を動機づけるための遺産相続」という発想に話を戻そう。

 


もし子供が相続を目当てに親の面倒を見るほど親が財産を持っているならば、親はそもそも子供を当てにするまでもなく、自分の財産を使って自分の面倒を見ればいいではないか?

 


笠井潔は『国家民営化論』の中で次のような保険制度を提案している。

 


配偶者が死ぬまで、あるいは足腰が立たなくなるまでは、住みなれた土地で自分が建てた家に住みつづけたいという老人のために、新しい保険制度の考案も必要だろう。

 


不動産の所有権の移転を前提として、私的年金を保障するような保険制度。

 


年金は、該当する不動産の評価額を、平均寿命から算出される年数で割った額が、死ぬまで保険会社から支払われる。

 


平均寿命を超えて長生きする加入者がいる反面、それに達しないで死ぬ加入者もいるのだから、保険会社が過大なリスクを負うことにはならない。

 


あるいは掛け金を最初に全額支払った後は死ぬまで定額の年金が支払われるという制度も考えられる。

 


こういった制度があれば、自分がいつまで生きるかわからないので将来のためにどれだけ残しておくべきか迷うこともない。

 


実はこのような制度は、一世紀も前から日本民法の中に「終身定期金」という契約で規定されているのだが、ほとんど利用されていない。

 


その原因は年金制度が発達していることにあると言われる。

 


しかしこれから高齢化に伴い、年金制度が破綻

するおそれが強くなると、名称はどうであれ何らかの形で終身定期金の契約が見直されるかもしれない。

 


またリバタリアンな国家ならばそもそも強制的な社会保険はほとんどあるいは全く存在しないから、そこでは私的な終身定期金の契約への需要が大きいだろう。

 


いずれにせよ、老齢の親を扶養する義務を持ち出して遺産の相続を正当化することはできない。

 


感想

 


なぜ、子供が老齢の親を扶養する(強制可能な)義務を負うのか、という疑問に驚きましたが、親の勝手で子どもが生まれるとぼくは思うので、たしかに義務はないと思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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