こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
移動にこそ欲望が詰まっている
情報への欲望は、身体と深く関係しています。
情報は公開されるだけでなく、欲望されなければならない。
ではどうやって欲望させるか。そのためには身体を「拘束」するのがいちばんいいと思います。
身体を拘束、というとぎょっとするかもしれませんが、単純な話です。
たとえばぼくたちはチェルノブイリに行きました。行くのはたいへんです。日本からウクライナまでの直行便はありません。
ようやくキエフに着いても、チェルノブイリはそこからバスで2時間かかる。でも移動時間は決して無駄ではありません。
なぜなら、その行程のなかでこそ、ひとはいろいろと考えるからです。
この「移動時間」にこそ旅の本質があります。もし今回のチェルノブイリツアーについて、仮想現実で体験可能だったとしたらどうだったでしょう。
自宅にいながらにして、チェルノブイリをめぐることができる。いま労働者はこういう生活をしているのか。事故の傷痕はこう残っているのかとわかる。
実際、いまでもチェルノブイリ原発の写真はネットにいくらでも転がっています。博物館の内部写真もあります。グーグルストリートビューもあります。
現地にっても写真と同じ風景が見えるだけです。仮想現実でも情報は十分に手に入ように思えます。
しかしやはりなにかが違います。違うのは情報ではなく時間です。 仮想現実での取材の場合、そこで「よし終わった」とブラウザを閉じれば、すぐに日常に戻ることができる。
そうなるとそこで思考が止まってしまう。
けれど、現実ではそんなに簡単にはキエフから日本に戻れない。だから移動時間のあいだにいろいろと考えます。
そしてその空いた時間にこそ、チェルノブイリの情報が心に染み、新しい言葉で検索しようという欲望が芽生えてきます。
仮想現実で情報を収集し、すぐに日常に戻るのでは、新しい欲望が生まれる時間がありません。
身体を一定時間非日常のなかに「拘束」すること。そして新しい欲望が芽生えるのをゆっくりと待つこと。これこそが旅の目的であり、別に目的地にある「情報」はなんでもいい。
「ツーリズム」(観光)の語源は、宗教における聖地巡礼 (ツアー)ですが、そもそも巡礼者は目的地になにがあるのかすべて事前に知っている。
にもかかわらず、時間をかけて目的地を廻るその道中で、じっくりものを考え、思考を深めることができる。
観光=巡礼はその時間を確保するためにある。
旅先で新しい情報に出会う必要はありません。出会うべきは新しい欲望なのです。
いまや情報そのものは稀少財ではない。世界中たいていの場所について、写真や記録映像でほとんどわかってしまう。
にもかかわらず、旅をするのは、その「わかってしまった情報」に対して、あらためて感情でタグ付けをするためです。
海外旅行なんて必要ない、グーグルストリートビューで写真を見れば十分じゃないかというひとは、このことを見落としています。
情報はいくらでも複製できるけど、時間は複製できない。欲望も複製できない。情報が無限にストック可能で、世界中どこからでもアクセスできるようになったいま、複製不可能なものは旅しかないのです。
感想
「移動時間」にこそ旅の本質があります。
という箇所が一番印象に残りました。
たしかに、車窓を眺めながら色々考える人もいると思いました。
下記の本を參考にしました
『弱いつながり』
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東浩紀著