こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
今日の政治学者・評論家の多くは、政治の現状を批判しながら、民主主義や福祉の充実や地方自治の名の下に、政治権力の一層の拡張を事実上提唱しているが、彼らもまた自由の敵である。
その中でも地方自治や地方分権の主張を検討してみよう。 リバタリアニズムは地方分権をある点では歓迎し、ある点では警戒するだろう。
一方では、地方分権が進み多様な自治体が生ずることは、人々にとって多様な生活環境が選べるようになるという理由でよいことである。
たとえば、税金はとても安いが公共サービスは最小限にとどめている町、逆に税金は高いが公共サービスは充実している町、あるいは税金が高くて公共サービスもたいしたことはないが、公務員の給料は高くて役所や美術館などの公共建造物が立派な町、環境保護に力を入れる町、外国人を含む多様な住民層を積極的に受け入れる町などが生まれれば、人々は自分に合った町に住むことができるかもしれない。
そして自治体ごとのさまざまな制度の優劣が判定できるという点で、巨視的に見れば社会全体の進歩にも役立つだろう。
しかし他方で、国よりも自治体の方が公民的共和主義を実現しやすいとか、その地方固有の文化や産業を守れるとか、「きめ細かなサービス」ができるといった理由で地方自治が唱えられるなら、それには賛成できない。
なぜならそれは、国家による権力行使に代えて自治体による権力行使を正当化することになるが、後者の方がましだと考えるべき理由はないからである。
日本語の「政府」という言葉はたいてい国だけに適用されるようだが、英語の「ガバメント」は国の政府にも地方政府にもあてはまる言葉である。
いずれも権力組織であるという点では変わりない。「国家と社会」、「政府と民間」という分類において、自治体ははっきりと国家や政府の方に属する。
分権論者が国家の権力を自治体に分散させるよう主張するのに対して、リバタリアンはなるべく多くの公的権力を個人の自己決定(民間団体の自己決定も含む)のレベルに分散させるように主張する。
アメリカ合衆国のリバタリアンは、伝統的に連邦政府の権力に対して州権を擁護する傾向がある。
それにはそれなりの理由もあるのだろうが、南北戦争前に奴隷制を維持しようとする南部諸州が州権に訴えたことを考えると、州政府が連邦政府よりも自由を尊重するとは限らない。
また日本でも、税金の無駄使いである公共事業は国のレベル以上に自治体のレベルで顕著なようである。
人々はどの自治体に住むかを自分で決められるとはいっても、実際には引っ越しの心理的・経済的コストは大きい。
一度住み着いた家を離れるのは難しい。
自分の住む自治体を選ぶことが現実には困難だとすると、自治体による個人権の制限もやはり広く認めるべきはでない、ということになるだろう。
むしろ共同体的色彩が強い、狭い地方自治体内部における個人の自由を守るためには、国の機関による保護が必要とされる場合もあるかもしれない。
感想
人々はどの自治体に住むかを自分で決められるとはいっても、実際には引っ越しの心理的・経済的コストは大きい。
一度住み着いた家を離れるのは難しい。
という箇所が特におもしろいと思いました。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進