とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

リバタリアニズムと民主主義

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


リバタリアニズムと民主主義

 


リバタリアニズムも国家を必要悪として認める限りは、民主主義が政治の形態として一番ましなものだと考えるだろう。

 


しかし、それは決して政治参加がそれ自体として万人にとってよいことだからではない。

 


すべての国民が政治的な意思を表明でき、民意に反する支配者が排除されるような制度は、それ以外の政治システムよりも人々の権利の保護や平和や繁栄に資するだろう、少なくとも全体主義に陥りにくいだろう、という理由によるものである。

 


理論的には貴族制であっても君主制であってもこれらの目的の役に立つならば構わないのだが、事実問題としてこれらの政体よりは民主制の方が効果的である。

 


しかし、民主制もへたをすると権威主義的独裁をもたらすおそれがある。

 


民主制の主権者は全体としての国民であって、基本権の持ち主である個々の国民ではないから、基本権が民主的決定によって侵害される可能性は否定できない。

 


それを妨げるための制度として、政治的決定によっても変えられないような人権宣言や、権力分立の制度がある。

 


要するに、民主主義や人民(国民) 主権以上に、基本的人権が重要なのである。

 


人権は国家主権に優先する。

 


これに対して、公民的共和主義者のように民主的政治過程を自己目的化する人々は、人権と国家権力との衝突の可能性を真剣に考えない傾向がある。

 


そのために彼らは、政治権力は民主的でありさえすれば、どんなに強大でどんなに広範囲にわたってもよいと考えてしまう。

 


つまり、主権者が誰であるかばかりを重視して、いかなる主権にも制約を課さねばならないという問題関心に乏しいのである。

 


民主主義、特に参加民主主義には、国民を国家と一体化させ、忠誠心を強要するおそれがある。

 


前近代の多くの国家は、国民に税金を納め社会秩序を守る以上のことは要求しなかった。

 


人々がその義務を果たしている限り、国は彼らの生活に介入しなかったのである。 

 


ところが近代的な国家は、国民が自分の属する国家の歴史と文化に心情的に同一化し、愛国心を持ち、国家的目的に協力するように強制する。

 


その典型的な例が国民皆兵であり、民族主義歴史教育である。

 


国民と国家の同一化の傾向は民主主義国だけに限られないが、民主制において一層正当化しやすいように思われる。

 


そこでは国民が主権者であり、あらゆる国民が政治に参加する権利を認められているからである。

 


しかしいくら民主的な国家であっても、そのような一体化への強制は正当でない。

 


なぜなら国家は自発的な加入と脱退が不可能とはいえなくても極めて難しい団体であり、また個人の政治的活動が政治に影響を与える可能性もごく限られているからである。

 


人が自分から推進したわけでもない国家の行動に、同一化するいわれはない。

 


民主制における主権者と被治者の同一性を論拠として、これに反対する議論は簡単に言えば次のようなものである。

 


人がある政策、あるいはそれを支持する政党に選挙で一票を投じたならば、その政策に対して責任を負う。

 


だがもし棄権したならば、あとになってその政策を批判する資格はない。

 


また反対の一票を投じたとしても、投票者は投票することによって、民主的決定に従うという意思を表明したのだから、自分が反対した政策についても民主主義国の一メンバーとして責任を負う。

 


かくして人が投票時に何をしても、民主的に選ばれた政府のあらゆる政策に責任を負わせられるのである。

 


だがいくら理想的な民主制においても、一つの意思を持つ主権者として見られた国民全体と、被治者として見られた個々別々の国民とは別物なのだから、国民に積極的な国家への忠誠と同一化の義務を負わせるために民主主義の理念を持ち出すべきではない。

 


政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素にある。

 


リバタリアニズムの観点からすれば、国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的役割しか持たない。

 


それ以上の価値を認めることは個人の自由だが、それを他人にまで強いるのは不当な介入である。

 


国民的あるいは民族的なアイデンティティなるものが各個人にとってどのくらい大切か、社会にとってどのくらい有益かは一つの問題だが、ともかくその確立は政府の任務ではない。

 


ところが今の日本では、ナショナリズムに一見反対している論者たちが戦後世代が戦争責任の引き受けることを主張するというねじれが見られる。

 


しかしそれは日本人すべてに、戦前戦中戦後を通じた「日本人」という国民集団への人格的帰属を強いることになる。

 


これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である。国が何らかの責任を負うからといって、国民が人格的な責任を負うということにはならない。

 


感想

 


民主主義、特に参加民主主義には、国民を国家と一体化させ、忠誠心を強要するおそれがある。

 


という箇所が特におもしろいと思いました。

 


みんなで決めたのだから、それに従うのは当然というわけである。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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