とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

最大幸福のための臓器移植くじ

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


最大幸福のための臓器移植くじ

 


狭義の自己所有権のテーゼは、もっとも根本的な道徳的信念の一つでもあるが、イギリスの哲学者ジョン・ハリスは、「生存のくじ」(東海大学出版会、加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』所収。

 


邦訳の題名は「臓器移植の必要性」)という刺激的な論文で、その信念に正面から挑戦した。

 


この論文は英語圏でも知られているが、むしろ日本において一層よく論じられているようだ。

 


ハリスは臓器移植の技術が大変発達したと仮定して、次のような強制的な臓器提供のくじの制度を提案する。

 


社会のメンバーのうち健康な人々はすべてくじを引く。

 


彼らの中から無作為に選ばれた当選者から、健康な臓器を病人に移植する。

 


そうすれば、 一人の健康な人の犠牲によって二人以上の病人が助かるから、現在よりもはるかにたくさんの人々が長生きできるようになる。

 


ただし不養生で病気になった人は自業自得だから、臓器移植の受益者になれない。

 


この提案は極めて反直観的であって、それを支持する論者はほとんどいない。

 


だがそのような制度の実施に伴う経済的コスト(社会のメンバー全員の健康状態や、それどころか生活態度まで把握するためのもの)や倫理的危険性(くじが政治的な目的のために濫用されるかもしれない)を別にすると、それに根本的に反対する論拠の多くは薄弱である。

 


反論としてまず第一に、くじの犠牲者には何の罪もないのに殺されるのは非人道的だと言われるだろう。

 


しかし、それに対してはこう回答できる。 自分の臓器の病気のために死んでしまう病人にも罪はない。健康な人はたまたま運がよくて健康なだけで、病人よりも生きるに値するわけではない。

 


両方とも道徳的には同じ資格を持っている。それならばなるべく多くの人間を救うのが、人命尊重の命ずるところである。

 


次に、そんな社会では誰もが臓器移植くじに当たるかどうかわからないから安心して暮らせない、という批判も起きるだろう。

 


それに対してはこう答えられる。 どのくらい安心して暮らせるかは、当選の確率による。

 


一年間にくじに当たる確率は一万分の一だとしてみよう。現代の日本では毎年一万人くらいの人が交通事故で死んでいる。

 


つまり交通事故で死ぬ確率は、おおざっぱに言えば、一年間に一万分の一である。この確率は高すぎる、それをもっと減らすべきだ、と考える人も多いだろう。

 


しかしそういう人々も含めて、現代の日本人は、いつも交通事故死の恐怖におびえながら暮らしているだろうか?

 


そんなことはない。それならば、くじに当たる確率が同じくらいの社会でも、くじを恐れずに暮らせる人が大部分だろう。

 


それに考え合わせなければならないのは、その社会では自分の不養生のせいでない病気で若死にする確率が減少するということである。

 


すると現在の社会よりも、不治の病気にかかる心配は少なくなるだろう。その減少の程度は、く

じに当たる不安を補って余りあるものだろう。

 


感想

 


ハリスの提案は衝撃的ですが、おもしろいと思いました。

 


少し考えれば、そこまで悪い提案でもないと思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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