とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

医者が病気を引き起こす?

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題  病院化された社会

 


現代医療をラディカルに批判した人に、I・イリッチがいます。イリッチの「脱病院化社会』(晶文社)の序文は、こんな過激な文章で始まります。

 


「医療機構そのものが健康に対する主要な脅威になりつつある。専門家が医療をコントロールする

ことの破壊的影響は、いまや流行病の規模にまでいたっている」

 


この流行病をイリッチは「医原病」 医療が原因となって引き起こされた病気―と呼びます。

 


彼によれば、たしかに近代に入って多くの疫病による死亡率が急速に低下しました。

 


しかし、それは医学の進歩、たとえば予防接種の普及や抗生物質の使用などによるよりも、栄養状態が改善されることで人間の抵抗力が高まったことによるところの方が大きかったといいます。

 


そして、現代医学は、一般に考えられているほど疾病率を低下させるのには役立っておらず、むしろ病気の原因を作りだしていると指摘します。

 


こうした医原病には2つのタイプがあります。

 


臨床的医原病―これは、病院や医師による過度の治療の副作用によってもたらされる病気です。

 


薬物が必ず副作用をもつことはよく知られた事実です。また、過度の抗生物質の投与によって、細菌群に変化が起こり、より抵抗性の強い微生物が繁殖して人体を冒すことも知られています。

 


最近では多剤耐性菌による院内感染も報告されていますが、こうした過剰な治療行為によって生じる病気が臨床的医原病です。

 


社会的医原病医療は人々を治療的・予防的医療の消費者にすることで病的な社会をもたらすことになります。

 


たとえば、官僚的な医療機関が患者のストレスを増大させ、依存性を増加させ、人々の自発的な自己ケアを放棄させるとき、社会的医原病は生まれます。

 


医師という専門家が医療を独占すると、人々は自ら環境と戦う自律的な力を失います。

 


よく大きな病院にいくと「検査漬け」にされると

いいます。予防医学は病気を発見しますが、たいした病気でもない人を立派な病人にしてしまいます。

 


さらに、人間の生死も医師によって決められてしまいます。すなわち、生存期間は、医師が胎児を産ますべきかどうか、どのように産ますべきかを決定する出生前の検査にはじまり、医師が人工呼吸装置を止める指示をカルテに記載するときに終ることになる。

 


出産も同様です。昔は産婆さんが家に来て、家族に見守られて子どもが誕生したものでした。

 


ところが、今日、ほとんどの子どもは病院で生まれます。再生産領域を代表する家族は、もはや人が生まれ、死ぬ場所ですらなくなっています。

 


人間は病院で生まれ、学校で育てられ、企業で働いて、病院で死に、葬儀社によって葬られていくのです。

 


文化的医原病―健康に関する専門的職業が、人々の弱さ、傷つきやすさを自分なりの自然な方法で処理する能力を破壊することによって、現代医療は文化の面でも健康否定の効果を次第に深めていきます。その結果、病気にともなう苦悩や痛み、ざらには死に対する健康な反応が麻痺させられます。

 


どんな文化でも、伝統的に健康についての観念をともなっており、それにもとづいて痛み、病気そして死について宗教的な「受苦」の技術を備えてきました。

 


ところが、19世紀末には、痛みや苦悩は、自然の法則に従う身体機能とみなされ、何らかの形而上学的説明を必要としなくなりました。

 


そして、痛みや苦悩は神秘的関心に値しないものとなり、それらを除去するという目的で経験的研究の対象となります。

 


こうして「痛みを殺すことで、人々は、自分自身の次第に枯れ衰えていく自我を無感情に眺める

者になって来ているのである」

 


感想

 


病院に行くと病気になると言われることがありますが、医者がそう仕向ける側面もあるかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『ライフイベントの社会学

   片瀬 一男著

 世界思想社