とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

功利主義と原理主義

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


功利主義原理主義

 


リバタリアニズムの思想をもうすこし具体的に見ていこう。

 


一般的に「功利主義原理主義の対立」と呼ばれる問題がある。

 


功利主義というのは、言うならば 「結果オーライ」の思想である。

 


功利主義者は、「なにがほんとうに正しいかなんてわからない」という立場(不可知論)をとる。

 


でも、人間が生きていくためには、なにが正しくてなにが間違っているかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが〝正しい”」と決めてしまうのだ(これを「帰結主義」とか、「プラグマティズム」とかいう)。

 


経済学というのは、この功利主義ときわめて相性がいい。

 


正しいかどうかを損得(効用)で判断できるからだ。

 


正しい経済政策とは、社会にもっとも大きな効用(=富)をもたらす政策なのである。

 


それに対して原理主義者は、なんらかの価値の源泉があらかじめ存在すると考える。

 


リバタリアンの場合、この価値(自然権)は「自由」であり、リベラリストなら「(自由を含む) 人権」となるだろう。

 


リバタリアン古典的自由主義経済学者と、リベラリストケインズ派経済学者と手を携えるのは、彼らが自分たちの奉ずる価値を補強するかぎりにおいてなのだ。

 


その主張がどれほど似ていたとしても、原理主義者と功利主義者のあいだには思いのほか深い溝がある。

 


原理主義功利主義のちがいは、「自然権」と「自然法」によって説明することもできる。

 


原理主義者は、すべての人間には天賦の権利(自己所有権、人権)が備わっていると考え、その自然権から自然法が成立する。

 


自然権は自由な個人間の社会契約によって成立すると考えるから、彼らは「契約論者」でもある。

 


一方功利主義者は、自由な社会(市場)のなかで、言葉や貨幣などの交換を通して自然に自生的に秩序が生まれ、それが自然法になると考える。

 


この場合自然権は、自然法によって事後的に定められた権利である。

 


リバタリアンであれ、リベラリストであれ、原理主義的、自由主義の特徴は、キリスト教原理主義イスラム原理主義と同様に)いっさいの妥協を許さないことである。

 


日本では反核反戦を唱えるリベラルな市民団体にしばしば狂信的なかたくなさが見られるうが、原理主義リバタリアンもこうした傾向から無縁ではない。

 


アメリカにおいて、 リバタリアンがカルト宗教の類と同一視されるのも、理由がないわけではない。

 


その一方で功利主義者には、生命の重さを計量するような冷酷さがつきまとう。

 


たとえば、ホームレスから臓器を摘出してより有用な人(たとえば難病の治療薬を開発中の生化学

者)に移植するのは、功利主義的にはどこも間違っていないのだ。

 

 

 

感想

 


功利主義というのは、言うならば 「結果オーライ」の思想である。

 


功利主義者は、「なにがほんとうに正しいかなんてわからない」という立場(不可知論)をとる。

 


でも、人間が生きていくためには、なにが正しくてなにが間違っているかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが〝正しい”」と決めてしまうのだ

 


という箇所がおもしろかった。

 


うまくいったものが〝正しい”には少し引っ掛かるものはありますが。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)