こんにちは。冨樫純です。
独学で、倫理学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
私たちがお互いに負いあうもの
理由に関心がない人は、「確かにあなたの言う通り、私には動物の肉を食べることを避ける理由があるんだろうさ」と認めた上で、 なお、平気で肉を食べるでしょう。
しかし、それでも、もしその人が合理的な人なら理由があることをするはずだ、逆に言えば、合理的な人とは理由がある事柄をする人、理由に応答する人のことである、と主張する人もいます。
たとえば、阪本さんが肉食を避ける決定的理由があると信じているとします。
このとき阪本さんが合理的な人であるなら、阪本さんは肉食を避けるだろうということです。
注目すべきは、合理的な人という箇所です。合理的な人というのはどういう人か、という問いに対して、理由があることをする人だ、とスキャンロンは答えます。
そうする理由がないことや、より妥当な強い理由があることがあるのにそれをしないで、別のことをしてしまう人は、不合理な人と言われます。
つまり、あらゆることを考えた上で、肉食を避ける決定的理由があると信じていて、それにもかかわらず、ガツガツと肉を食べる人は、きちんと理由に応答できない不合理な人だということです。
では私たちはお互いのことを合理的な人間とみなしているでしょうか、それとも不合理とみなしているでしょうか。
おそらく、常に完全にというわけではないにせよ、私たちはお互いをある程度は合理的だとみなしているのではないでしょうか。
だからこそ私たちは互いに何かを説明し、言葉を尽くして語りかけるのだと思います。
別の角度から言えば、相手を合理的な人とみなすということは、相手を「自ら考えて理由に応答できる自律的な存在者」として尊重することを含みます。
私たちは、たとえば子どもを相手にする場合、しばしば説明を省いて特定の行動を強制することがありますが、これは相手がまだ合理的な存在者であるとは認めていないことを示しています。
「あなたは肉食をやめるべきだ」と言うことは、相手に「あなたには肉食をやめる理由があるよ」と伝えることなのです。
感想
おそらく、常に完全にというわけではないにせよ、私たちはお互いをある程度は合理的だとみなしているのではないでしょうか。
という箇所がおもしろいと思いました。
そういう一面はあると思うからです。
下記の本を参考にしました
『「倫理の問題」とはなにか』
メタ倫理学から考える
佐藤岳詩著