こんにちは。冨樫純です。
独学で、倫理学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
理由になるものとならないもの
さて、根拠と似たもので理由というものがありますが、この理由はしばしば行為と結びけられます。
行為の理由とは、「なぜその行為をするのか」と問われたときに、「しかじかだから」という形で語られるものです。
ウィリアムズは、「内的理由と外的理由(1979)という論文において、理由になりうるのは、当人の心のなかの何らかの動機づけとかかわっているものだけだ、と主張しました。
その場合、動物が被る苦痛が、肉食をやめる理由になるかどうかは、動物への思いやり、苦痛を嫌がる気持ち、嫌なことを避けたいといった動機づけがあるかどうかのみによって決まります。
他方で、ウィリアムズより一回り年下で、彼と同じくヘアの元で研鑽を積んだオックスフォードの哲学者、デレク・パーフィット(1942-2017)は、理由になり得るものは当人の心の状態とは関係なく、世界の側で決まっていると主張しました。
たとえば、あるボタンを押すことが檻のなかの犬に苦痛を引き起こすという事実は、私たちの気持ちとは関係なく、そのボタンを押さない理由になります。
たとえ、昔、噛まれたことがあって心の底から犬を憎み、可能なら苦痛を与えてやりたいと思っていたとしても、苦痛はボタンを押さない理由をもたらすのです(とはいえ、他に犬に苦痛を与える理由があるかもしれないので、実際には様々な理由のどれに従って行動するか、ボタンを押すかどうかを、私は考える必要があります)。
パーフィットらは、「xをする理由がある」ということを、「xをすることを支持する事実がある」ということだと理解します。
たとえば「飼い犬に優しくする理由がある」は、「飼い犬に優しくすることを支持する事実がある」を意味しています。
その事実は、「犬は感覚をもった動物で、飼い主の態度に敏感である」などといったものであるかもしれません。
確かに、本人がやりたがっている、ということはそれを為すことを支持する一つの事実であるかもしれません。
しかし、自分の為すことを決めるに当たって考慮しなければならない事実は、それだけではないはずです。
先ほどのボタンを押すかどうかを考えるとき、自分が押したいかどうかだけを考えればいいというのはおかしいように思います。
それを押すとどうなるのか、 犬の被る苦痛、 その犬の飼い主が感じる苦痛などはボタンを押さないことを支持するでしょう。そうした様々な事実を総合的に熟慮して、私たちは決定を下すべきだし、そうした総合的な熟慮において注意を払わねばならない事実こそ理由というものだ、そうパーフィットは主張します。
ウィリアムズのような考え方と、パーフィットのような考え方は、理由というものの本性をめぐって鋭く対立しています。
特にそれが鮮明になるのは、一般的には理由になるとみなされるものの、当人にとっては何の関心もないような事柄を取り上げる場合です。
ウィリアムズは軍人の家系に生まれた青年の例を挙げています。青年本人は、軍人になることに何の関心もないのですが、 彼の面倒を見てきた伯母や祖父は彼には軍隊に入る理由があると言います。ウィリアムズに言わせれば、自分自身の中に、軍人になりたいという気持ちがない以上、彼には軍隊に入る理由などありませんし、伯母らが言っていることは押しつけに過ぎません。
感想
ぼくは、ウィリアムズの方が説得力があると思います。
下記の本を参考にしました
『「倫理の問題」とはなにか』
メタ倫理学から考える
佐藤岳詩著