とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

動機づけの外在主義と内在主義

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


心を動かす

 


「動物の肉を食べることは悪い」という言葉は、肉を食べない方向へと聞き手の行動を導こうとしているように見えます。

 


しかし、この考えに対して否定的な論者もいます。規範的な言葉は本当にそのような力をもつのでしょうか。

 


確かに、古くは、ソクラテス知行合一を説き、知って悪をなす者はいない、と論じました。現代風に言えば、それが本当に悪いと分かっているなら人はそれをしない、悪いことをする人はそれが悪いと本当には分かっていないのだ、ということです。

 


実際にそれが正しければ、規範的な言葉は行為を導く力をもつと断言できたでしょう。ですが、世の中には、悪いと分かっていて悪いことをする人たちがいくらでもいるようにも思えます。

 


マフィアやギャングが自分の行動が悪いと分かっていない、というのは変な感じがします。

 


あるいは、自分の行動を振り返ってみても、悪いと分かっていながら、ついつい誘惑に負けてしてしまうことが、日常的にあるようにも思えます。

 


実際、動物を殺して肉を食べることが悪いとしても、仕方がないし・・・・・・ と思う人もいるかもしれません。

 


そう考えると、規範的な言葉には行為を導く力なんてないのではないか、と言いたくなるのも当然

です。

 


このような考え方は、少し専門的な用語になりますが、倫理学では動機づけの外在主義と呼ばれます。

 


規範的な事柄の内側には、人を行為へと導く力、動機づけは含まれていない、人を動かしたいならそうした力をもつものを外側から付け加えなければならない、そうした動機づけの力は規範的な事柄の外側に在る、という考え方です。

 


たとえば、悪いことをさせないためには、それが悪いと指摘するだけでは足りず、その悪いことをするとひどい罰を受けるという指摘まで行う必要があるかもしれません。

 


この考え方は一見して説得力があるようにも見えますが、反論もあります。

 


たとえば、マフィアは、一般的な道徳を破ることを本当の意味で悪いとは思っておらず、本当に悪いこととは自分の属するファミリーの掟を破ることなのだ、と思っているのかもしれません。

 


あるいは凶悪犯罪を起こした人のなかには、少なからず、それが正しいと信じて行った、という人がいます。周囲から見るとどれだけ身勝手で、それこそ真理を歪めて見た末での犯行だったとしても、当人の目にはそれが正しいことに見えていた、という事例は多々あります。

 


自分のことについても、同じです。ついつい悪いことをやってしまうとき、心のなかのどこかで言い訳をしてはいないでしょうか。今回に限っては、これはやってもいいのだ、これはそこまで悪いことではないのだと。

 


さらに、本当に心から悪いと思っていることについては、選択肢に上がりすらしないのではないか、と論じることもできます。

 


散歩中、誰も人がいないときの信号無視は、実際にするかどうかはともかくとしても、選択肢には上がってくるようなことだと思います。

 


そうした信号無視は、つい、これくらいなら悪くないのではと考えてしまえるようなことだからで

す。

 


他方で運転中、歩行者がいるのに、その人をはねてでも信号を無視するという行為を、まじめに選択肢として考慮する人はほとんどいないはずです。

 


それは人をはねてしまうことが明らかに悪いことだからではないでしょうか。

 


これらの反論が正しければ、やはり人は悪いと思っていることはできない、それどころかそもそも考えつきもしない、ということになり、その場合、規範的な言葉には人を動かす力があると言えるでしょう。

 


このような考え方は、人を動かす動機づけの力は規範的な事柄の内に在る、とするものであるため、先ほどの外在主義と対置して、動機づけの内在主義と呼ばれます。

 


感想

 


個人的には、「動機づけの外在主義」の方が説得力があると思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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