とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

道徳とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


ヘアの立場の変化 「優越性」

 


ヘアの方の立場も少しずつ変わってきます。彼は二冊目の著作『自由と理性』(1963)において、道徳が勧めの力をもつという主張は維持しつつも、道徳の原則と他の原則の違いは、前者が後者に対する「優越性」(overridingness)を備えていることにあるという主張を新たに行います。

 


ヘアはここで道徳原則を「たとえその原則が美的な原則やエチケットの原則のような従属的な原則の破棄を含んでいるとしても、自分の生活を導くために最終的に受け入れるような原則である」(『自由と理性』23頁)と説明します。

 


ヘアの考えでは、私たちは生きていくなかで、特定の原則や理由を自分にとって重要なものとみなします。

 


たとえ他の原則とぶつかったとしても、基本的には曲げられることはなく、それに従って様々な判断や行為をなす、そういった原則がある、それがあなたにとっての道徳原則である、とヘアは述べるわけです。

 


このとき、内容については、以前と同じ「人の理想的な在り方」に加えて、「各人の利益にかかわる」というものをヘアは追加します。

 


しかし、重要な点は、どちらかというと、それらよりもやはり、優越性の方にあったようです。

 


ヘアは残虐の限りを尽くしたヘリオガバルス帝やナチ党員が持つ原則を例に挙げていますが、こうしたものは彼ら自身が自分にとって優越的な指針であるとみなしている限りで、他の原則とは別格の道徳原則であるとされます。

 


そのため、ナチ党員らが奉じていた差別的な原則も、彼らにとっては正しい道徳原則です(そして、もちろん、私たちにとっては誤った道徳原則となります)。

 


とはいえ、このことはヘアが理想像基準を捨てて、重要性基準をとったということを必ずしも意味しません。

 


というのも、優越的な原則というのは、あくまでこの私が優越的なもの、として扱う原則だからです。

 


それは他の自分を動かす諸原則よりも一段上にあって、私がそうありたいという理想とつながるものだと捉えることができます。

 


フットが常に自分たちにとって大事なこと・良いことを守り、害あることを避けるというモデルで倫理を考えていたのと同様に、ヘアもまた、一貫して、どのような仕方で自分の人生を導いていくか、どのような人間になっていくか、ということこそ倫理・道徳の問題であると考えていました。

 


ヘアのような理想像基準をとる人にとって、倫理とは生き方を示すものであり、それゆえに倫理の問題とは、これからの自分をどう変えていくか、という問題なのです。

 


感想

 


道徳原則を「たとえその原則が美的な原則やエチケットの原則のような従属的な原則の破棄を含んでいるとしても、自分の生活を導くために最終的に受け入れるような原則である」という箇所がおもしろいと思いました。

 


特に、「自分の生活を導くために最終的に受け入れるような原則である」という箇所が説得力を感じます。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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