とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

道徳の射程の広さ

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


道徳の射程の広さ

 


さて、アンスコムは道徳という言葉の使用中止を提案したわけですが、人の行為というものが自然現象や物理現象とは異なる重要性をもっていることは認めています。

 


だからこそ、人の行為として記述されるかどうかに、彼女もこだわっています。

 


実際、ある出来事は人の行為によるとされることで禁止、非難、刑罰、責任といった他の実践とかかわりあいをもってきます。

 


他人を傷つけるような行為は禁止され、非難され、場合によっては刑罰の対象になるでしょう。

 


他方、たとえ誰かが傷ついたとしても、事故や物理現象の場合は、それが意図に基づく行為によるものではない以上、基本的には、誰かが非難されることはないということになります(もちろん、意図に基づかない、過失などの場合でも責任を問われるケースはありえますので、実際の事態はもう少し複雑です)。

 


したがって、アンスコムの考える道徳の領域は非常に広いものとなります。

 


理想像基準と重要性基準はいずれも人間の行為のなかに道徳にかかわるものと、そうではないものという領域を設けます。

 


他方で、アンスコムは単なる動作以外のもの、すなわち、何らかの意図に基づく人間の行為として記述されるなら、その時点ですでにそれは道徳の領域に入っているのだと考えます。 

 


もちろん、人間の行為であればなんでも道徳の問題になる、というのには違和感があるかもしれません。

 


猫をなでるとか、タクシーをとめるとか、お皿を買うとか、テレビを見るとか、私たちは日常的に様々な行為をなしています。

 


これらのすべてが道徳的行為と言われても、納得できない人もいるでしょう。

 


しかし、見方を変えれば、私たちはたいていこうした行為を遂行しても問題のないもの、禁止される必要のないものとみなしています。

 


それは私たちがそれらを道徳のテストをパスするものとみなしている、ということでもあります。

 


その意味では、何をしようか、という行為選択の問いはいつでも倫理の問いです。ある選択肢だけが特別に倫理にかかわっているわけではないのです。ことさらに倫理とか道徳とかいう言葉を使わなくても、私たちは日常生活のなかで常に、倫理的判断を下しながら暮らしている、とも言えるのです。

 


感想

 


私たちはたいていこうした行為を遂行しても問題のないもの、禁止される必要のないものとみなしています、という箇所がおもしろいと思いました。

 


我々は、無意識のうちに道徳的なのです。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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