とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

不完全な自己と他者との交わり

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


不完全な自己と他者との交わり

 


ローティはウィリアムズの著作についての書評において、ウィリアムズは単なる合意の成果と真なるものを見分けることができると思い込んでいるが、そんな証拠がどこにあるのかという趣旨の反論を行っています。

 


ここでも、どちらの言っていることの方が説得力をもつかは、簡単に結論の出せる問題ではなく、本書の手に余ります。

 


自分の「不完全さ」を認めること、それゆえに他者と向き合うこと、これらに重要性を見出しているように見える、ということです。

 


たとえば、ローティは、私たちが決して、絶対の正解、真理なるものには到達できないと認めます。

 


そしてそれを認めた上で、私たちは私たちの生活を始めなくてはなりません。私たちが今、正解だと思っていることはすべて、ただの妄想かもしれない、だからこそ、他者の意見に真摯に耳を傾け、常に、皆で少しでも良いと思える方向に向かって進んでいく必要がある。

 


彼はある論文で次のように述べています。

 


われわれにとっての対話の「成功」とは、単にそれを「続けること」以外にはありえないのだ。

(「プラグマティズム相対主義・非合理主義」 40頁)

 


ローティに言わせれば、真理にこだわる人々は、真理に到達すること、正解にたどりつくことを対話の最終目的としています。

 


すなわち、彼らは「それ以上の対話を不必要にするためにこそ対話をする」(同書4頁)のです。

 


他方で、そのような真理などないのだ、と考えたとき、私たちに残るもの、それは「人間同士の間の誠実さ」だとローティは言います。

 


真理をあてにできない私たちが互いに誠実であるとは、まさに自分の弱さを認め、常に、そしていつまでも相手の言葉に耳を傾け続けることなのです。

 


一方、ウィリアムズもまた、私たちが一人っきりで十全に生きていけるとは考えていません。

 


私たちは他者と情報を交換し、互いに信頼しあうなかで、自分自身も信頼するすべを身につけ、そこから自他に誇れる自分というものを確立していきます。

 


逆に、自分は完全な人間であると過信することは、自分自身に都合の良いように現実を歪めて見ることへとつながってしまい、最終的に自分への信頼をも失ってしまいます。

 


特に、このとき、テイラーも指摘するように、「本当の」という理想は、容易に「自分さえ良ければいい」というエゴイスティック、ナルシシスティックなものになってしまいます。

 


これは、自分の外の何かとの関係において、自己を捉えられないときに生じるもので、実質を欠いた空虚なものです。

 


こうなると私たちは確かな足場を失って、自分に都合の良い空想に走ってしまいます。

 


他者とかかわるときも自分を褒めてくれる人のみと付き合い、誠実に自分の欠点を指摘してくれるような人を遠ざけてしまいます。

 


それは結果として、自分自身を見つめ、認め、作り上げていく契機を失うことを意味します。

 


それを回避し、現実を歪めて見ることなく「本当の自分」を確かめるためには、空想ではない、実在する他者と真摯に向き合う必要があります。

 


彼らの否定や非難は、ときに、自分自身すら気づいていなかったことを教えてくれます。

 


実際、自分を承認してくれる他者とだけ付き合っても、それは自己の内側にとどまるに過ぎません。

 


真の他者は、自分の思い通りにならないものであり、そうした他者に認められるためには、信実であらんとすること、すなわち正確さと誠実さの徳をもつことを、欠くことはできません。

 


現代を生きる私たちは、自由を重視し、何かを強制されることを嫌います。特に、客観的な真理などは嫌いな人が多いかもしれません。

 


誰にも指図されずに好きなことを、自分らしい仕方でしたい、これはもっともです。 実際、自由というのは現代の社会が長い時間をかけて勝ち取ってきたものの一つであり、これを容易に手放すわけにはいきません。

 


しかし、そのときの自分らしさは、一人で生み出せるものではありません。むしろ、空想や願望で現実をねじ曲げることなく、自分の思い通りにならないもの、自分にとっての他者と誠実に向き合うことで、ようやく、曲がりなりにも安定した自分というものが得られます。

 


感想

 


他者とかかわるときも自分を褒めてくれる人のみと付き合い、誠実に自分の欠点を指摘してくれるような人を遠ざけてしまいます。

 


それは結果として、自分自身を見つめ、認め、作り上げていく契機を失うことを意味します。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


自分に都合の良い人や、情報だけで日々の暮らしが成り立たせることは可能だと思うからです。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

flier(フライヤー)