こんにちは。冨樫純です。
独学で、倫理学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「本当の私」
ウィリアムズは、思考実験の例から、原理的には、真理に向ける信実という態度は自他への信頼に基づいて説明ができると言います。
しかし、現実の世界はそう単純ではないとも、また認めています。
たとえば、歴史的には、「本当の」 (authentic) という概念が登場して、事態は極めて複雑になりました。
オーセンティックという言葉は、その他の似たようなもの、紛い物と区別して、本当の、本物の、正統な、本格的な、などを意味しますが(たとえば、オーセンティック・バーと言えば、重厚なカウンター、落ち着いた雰囲気、正装をしたバーテンダーがいるバーを指します)、18世紀以降、この概念は、「私」というものにも適用されるようになった、とウィリアムズは指摘しています。
つまり、人々は、表面上の私の背後に「本当の
私」というものが存在しているのではないか、と考えるようになったということです。
一時期、流行ったいわゆる自分探しの旅も、こうした本当の私を探す道のりというイメージだったのかもしれません。
眼鏡を外すと本当の私デビュー、というコンタクトレンズのCMもありました。
「本当の」という概念は、真理に向ける信実という態度と一見、相性が良いようにも見えます。
自分を騙したり、他者の前で演技をしたりするのは、信実を欠くように思えます。しかし、問題は、本当の自分なるものが、道徳的に良いものとは限らないこと、さらには一貫したものとは限らないことです。
本当の私は、道徳的な束縛から解き放たれた、他者を顧みない、自分勝手なものですらあるかもしれません。
あるいは、矛盾したことを望んだり、日によって信じるものが違うようなものだったりするかもしれません。
歴史的には、真の自己、本当の自分を示すことは、いつしか、誠実の徳から切り離され、道徳や倫理の側からは自分勝手さ、エゴの発露とみなされるようになっていったのだ、とウィリアムズは述べます。
そしてこのことは、本当の自分を大切にしたいと思っている人たちから道徳が疎まれる契機にもなりました。
道徳は、本当の自分が心から欲するものを追求することを妨げる拘束であり、お節介者のお説教、自由に生きようとする私たちの足を引っ張るものと理解されたのです。
感想
真の自己、本当の自分を示すことは、いつしか、誠実の徳から切り離され、道徳や倫理の側からは自分勝手さ、エゴの発露とみなされるようになっていったのだ、という箇所がおもしろいと思いました。
「本当の私」を追い求めることは、身勝手さに繋がるようです。
下記の本を参考にしました
『「倫理の問題」とはなにか』
メタ倫理学から考える
佐藤岳詩著