とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

真理と正確さ

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


なぜ正確であることは必要なのか

 


正確さを求めることは、誠実さ以上に真理の希求につながっている、とウィリアムズは述べます。

 


というのも、「きわめて重要なことに、正確さの徳は、願望、願望の産物、自己欺瞞の産物に抗して信念を守り支える性向と戦略を含む」(同書15頁)からです。

 


要するに、正確さは自分の都合によるごまかしなどを避けて真理をそれ自体として求めるらことであり、「正しく理解しよう、ちゃんとしよう」 (getting it right) という情熱なのだと、ウィリアムズは論じています。

 


正確さという徳は、単に事実として正確なことを調べたり言ったりするということにとどまらず、真理を大事に思い、それがゆえに正確に語ろうとする態度を指しています。

 


それゆえに、正確さもまた、名誉、良心、責任、自己尊重などにかかわってきます。

 


つまり、不明確なことや確信のもてないことを適当に言う態度は、自分の名誉を傷つけ、良心に反し、共同体のなかでお互いに課しあった責任を果たさないことを意味します。

 


それは結局自分自身を傷つけるのです。

 


ウィリアムズは、正確であろうとすることは、様々な仕方で妨害を受けると述べました。

 


たとえば「分からない」ということがあります。

 


世の中には少し考えただけでは分からない、難しいことがたくさんあります。その際、分からないからこそ正確に理解しよう、となればよいのですが、むしろその反対で、難しいし、分からないから、まあいいかとか、少し知識を得ただけでもう十分知った、などと思い込んでしまうことがよくあります。

 


実際、インターネットやワイドショーなどで綺麗に単純に編集された「分かりやすい」情報ばかりに人々が流されてしまうことの危険性も、近年指摘されている通りです。

 


あるいは、知らないことを尋ねられたときに、つい知ったかぶりをしてしまった、という経験は誰にでも身に覚えがあるでしょう。

 


こうしたことは、正確に知ろうとする態度の妨げになります。

 


他にも、ある信念が真であることを、その内容ではなく、「それが私の信念である」という理由で信じてしまう場合もあれば、ある信念が真であることを、その内容が真であってほしいがゆえに、信じてしまう、という場合もあります。

 


他人の考えよりも自分の考えの方を、たいした根拠もなく、正解に近いと思ってしまったり、そうあってほしいという願望から、あることが本当のことであるに違いないと思ってしまったりもします。

 


こうした態度は、いずれも自分を過信する傲慢さや、自分の無知に見て見ぬふりをする欺瞞へと容易につながっていきます。

 


したがって、正直さや正確さを欠くことは、真理を粗末に扱うことを通じて、自分自身を雑に扱うことにつながっています。

 


感想

 


正直さや正確さを欠くことは、真理を粗末に扱うことを通じて、自分自身を雑に扱うことにつながっています、という最後の箇所が、特におもしろいと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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