こんにちは。冨樫純です。
独学で、倫理学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
なぜ客観的な正解が存在しないと(誤って)考えてしまうのか ③ 証明の不在
さて、レイチェルズが挙げる、倫理に正解がないと誤って思い込んでしまう最後の理由は、倫理の問題には正解を導き出す証明が存在しないようにみえることにあります。
これをレイチェルズは次のような形でまとめています。
もし倫理学に何か客観的真理のようなものがあるなら、ある道徳上の意見は真、他は偽であると証明できるはずである。
しかし、実際は、どの道徳上の意見が真で、どれが偽であるのか証明できない。
それゆえ、倫理学においては客観的真理のようなものは存在しない。(同書14頁)
前に見たように、倫理的な性質は、丸さや硬さと違って、目で見たり、触ったりして確認することができるものではありません。 数式などを駆使して真理を示せるようなものでもないように思われます。
そのため、これが正解である、ということを決して証明できないのなら、正解などないと考えるのが自然である、というわけです。
このような考え方に対し、レイチェルズは、三つの点から反論します。第一に、科学での観察や実験に相当するような証明が存在しないとしても、倫理学において証明がまったくないわけではありません。「倫理学における理性的思考とは、理由を挙げ、主張を分析し、原則を立て正当化する」といったことにある。
「倫理学における推論が科学における推論とはい
くつかの点で異なるという事実は、それに欠陥があるということを意味するものではない」
(同書15頁)と彼は述べていますが、それによれば倫理学において何かを証明するとは、妥当な根拠を示すことです。
たとえば、「ジョーンズは悪い奴だ、無責任だ、非倫理的だ」という倫理的事実を証明するとは、そう考えてよい根拠を示すこととされます。 ジョーンズはすぐ嘘をつく、人のものを盗む、他人の意見を聞かない、自分の失敗を他人に押しつけている、などの根拠を先の事実を裏づける「証拠」として扱うことには、何のおかしさもない、とレイチェルズは考えます。
したがって、 「正しさ」や「悪さ」のような観察不可能な倫理的性質を持ち出さずとも、ジョーンズが普通に持っている観察可能な性質に基づいて、倫理的事実を語っても不都合はない、と考えることができるのです。
証明をめぐる議論への第二の反論は、こうした問題を考えるとき、私たちは自動的にもっとも難しい道徳上の問題について考えてしまう傾向がある、ということです。
確かに、証明ができないとしか思えないような難しい問題はありますが、そうした問題ばかりではありません。「気分次第で隣の人に暴力をふるってもいいか」などの問いには明らかに正解があり
ます。
他方で、「より大きな暴力を防ぐために、小さな暴力をふるうことは許されるか」は難しい問題です。
しかし、正解の出しにくさは、正解があるかないかとはまったく別の問題です。
これは宇宙の始まりは何であったかのような問題は証明が困難ですが、正解がないわけではない、ということを考えるとわかってもらえるかと思います。
さて、証明ができないことをめぐるレイチェルズの最後の反論は、シンプルです。それは、ある意見が正しいと証明することと、あなたの証明を受け容れるよう、ある人を説得することは違う、ということです。
どれだけ自分が正しいと思っていても、相手が受け容れてくれない、ということはしばしば生じます。そうした困難にぶつかるたびに、相手に自分の意見を拒絶される経験を重ねるたびに、私たちは自分の答えが正解かどうかを疑い、結局、正解
なんてないんじゃないか、と考えてしまいがちです。
もちろん、自分の意見は絶対にいつでも正しいのだというのは傲慢であり、おそらく間違っています。そのような態度を避けて、謙虚さをもつことは重要です。
しかし、十分な根拠があり、誤っていると考える余地がない事柄についてまで、相手が受け容れてくれないから正解ではない、と考えるなら、それは卑屈というものです。
地球が太陽の周りを回っているということも、奴隷制は廃止すべきだということも、 受け容れられるまで長い時間がかかりました。
しかし、それでも両者は正しかったのです。結局
のところ、説得が困難であることと、正解がないということは別の事柄です。
感想
ある意見が正しいと証明することと、あなたの証明を受け容れるよう、ある人を説得することは違う、という箇所がおもしろいと思いました。
証明🟰説得というイメージがありますが、そうではない考え方もあるようです。
下記の本を参考にしました
『「倫理の問題」とはなにか』
メタ倫理学から考える
佐藤岳詩著