こんにちは。冨樫純です。
独学で、倫理学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
倫理の二つの方向性
フットとヘアの議論が示したのは、道徳や倫理の理解には大きく分けて2通りのものがあり得る、ということです。
一つは、重要で深刻なものを示すもの。もう一つは、人間にとっての理想を示すもの。
では、重要性基準と理想像基準を踏まえると、倫理の問題とはどんな問題だと考えることができるでしょうか。
シンプルに考えるなら、「私たちにとって重要なものは何ですか」と聞くのが重要性基準に立った倫理の問題で、「私たちはどんな人になることを目指したらいいですか」と聞くのが理想像基準に立った倫理の問題です。
しかし、もう少しだけ丁寧に考えてみましょう。
重要性基準は基本的に、現在の自分たちにとって大切なものにフォーカスします。
そのため、重要性説に基づく倫理の問題は、私たちはこのようなものを大切にし、このようなものを重要とするのだ、ということを前提にした上で、それらを守り、促進するためにはどうしたらいいか、ということを問います。
ここでは私たちには何かしら 「重要なもの」があって、まずはそれを守るということは重点が置かれています。
たとえば、生命や健康、自由や生きがい、幸福などが、重要なものにしたらよいか といった形です。
他方で、理想像基準はむしろ現在の自分よりも明日の自分、将来の自分にかかわるものとなっています。
すなわち、今よりも良い自己を目指し、それに到達するための助言を示してくれるものが倫理というわけです。
そこには、人間はどのようなものになるべきで、何を重要なものとしていけばよいか、ということを問うことも含まれています。
こちらには、しばしば、今現在、私たちが「重要なもの」とみなしているものも、本当はそうではないかもしれない、という考えが含まれます。
たとえば、これまでは自分の自由を重視して、家族を蔑ろにしてきたけど、これからも本当にそれでいいだろうか、本当に理想的な人間はそういう人間だろうか、といった形です。
こうした二つのタイプといくぶん重なる形で、日本の倫理学者の平尾昌宏は、『ふだんづかいの倫理学』(2019)という著作の中で、倫理を守りの倫理、攻めの倫理という二つに区別しています。
平尾の考えでは、「悪いことをしてはいけない、もし悪いことをしたら正すぞ (罰するぞ)」という防御的な思考をとるのが守りの倫理です。
そして、「倫理とか道徳というのは何か善いことをする、善を目指すものだ」というプラスを増やそうとするのが攻めの倫理です(同書276-286頁)。
社会のなかでの間違いを減らし、害を取り除く、 「正義」などは守りの倫理ですが、より善い生き方を自ら定める「自律」などは攻めの倫理に属する、と平尾は述べています。
あるいは、生活を取り戻すための倫理が守りの倫理であり、より向上させるための倫理が攻めの
倫理ともいえるでしょう。
それに即して言えば、フットはどちらかといえば守りの倫理、ヘアは攻めの倫理に近いものを提案していたと言えるかもしれません。
倫理の問題の二つのタイプ
(一)自分たちにとって大事なものを守るためにはどうしたらいいか
(二)これから先、自分たちは何を大事だと考え、どのように変わっていけばいいか
感想
倫理を守りの倫理、攻めの倫理という考え方がおもしろいと思いました。
個人的に、守りの倫理の方が説得力を感じます。
下記の本を参考にしました
『「倫理の問題」とはなにか』
メタ倫理学から考える
佐藤岳詩著