とがブログ

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結局、倫理の問題に正解はあるのか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 

 

 

結局、倫理の問題に正解はあるのか

 


しかし、こう言ってみたところでやはり「そう簡単に諦めるな、結局、倫理の問題に正解はあるのか、もう少し説明しろ」と言われるかもしれません。

 


それもその通りだと思いますので、少しだけ、やや複雑な言い方にはなりますが、以下で筆者自身の考えを簡単に述べておきたいと思います。

 


マッキーの考えでは、倫理的な性質や倫理的事実が存在すると考えることは、思い込みに過ぎませんでした。

 


しかし、実はマッキーは、誰にでも当てはまる客観的に正しい答えがあらかじめ存在するということはありえないけれど、同時に私たちが何かを「正解であることにする」ことはできると考えていました。

 


それをマッキーは「倫理を創ること」だと述べま

す。

 


もちろん、個人個人が勝手に正解を創ってしまうと困ったことになります。しかし、私たちが生きていく上で必要な様々なものや、私たちの多くが目指している幸福をもたらすようなもの、そうしたものを保障してくれる様々な権利、そうしたものは重要であるという取り決めをすれば、その取り決めに照らして、倫理の問題には答えられることになります。

 


その取り決めが複数あれば、正解は複数ということになりますが、倫理の問題に正解が一切ありえないことにはなりません。

 


遺伝子操作の問題のように、これから取り決めを創っていかねばならない領域も存在します。

 


人工知能の開発などをはじめ、科学技術の急速な発展は、そうした領域を数多く生み出しています。

 


しかし、そこでも私たちはゼロから倫理を生み出すのではなく、基本的には既存の様々な取り決めを応用して、新たな取り決めを創っていくことになります。

 


さて、私たちの倫理が、こうした取り決めとしての側面をもつということは疑い得ないと思います。

 


しかしながら、私たちはいったいどんな取り決めを正当な取り決めと考えるでしょうか。一般に暴力や詐欺などに基づく取り決めは、およそまっとうな取り決めとは認められないでしょう。

 


たとえ本人が同意したといっても、ある人を奴隷として扱ってよいという取り決めも認められそうにありません。

 


だとすると、創られた倫理、取り決めの中にも、正しいものと正しくないものがあるのではないでしょうか。

 


では、ある取り決めの正しさを判定するものは何なのでしょうか。それもまた創られた倫理だとすると、創られた倫理の正しさを判定する創られた倫理があることになりますが、その判定する倫理の正しさは何が判定するのでしょうか。

 


要するに、どこかに創られていない倫理、私たちが創ったのではない倫理がない限り、私たちは自分たちが創った取り決めが正当なものかを判断することができないのではないでしょうか。

 


感想

 


誰にでも当てはまる客観的に正しい答えがあらかじめ存在するということはありえないけれど、同時に私たちが何かを「正解であることにする」ことはできる、という箇所がおもしろいと思いました。

 


「倫理を創ること」を我々は無意識にしているのです。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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