とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

倫理的、道徳的とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


深刻で重要なものとしての倫理

 


あらためて、ある発言や問題、理由などを「倫理的」「道徳的」にする要素とはいったい何だと考えられるでしょうか。

 


最初の候補は、「深刻さ」「重要性」というものです。

 


ピンとこない人が多いかもしれませんが、大雑把に言えばこういうことです。私たちには、それが損なわれると、自分の人生が損なわれたと感じるような深刻なものがいくつかあります。

 


今日、人権として扱われている一群の権利のなかでも、生存権などの基本権という形で保護されている権利はその最たるものです。

 


生命を脅かされたり、教育を受ける権利を奪われ

たりすると、私たちは自分自身で自分の人生を生きているとは言えなくなってしまいます。

 


しかしそれ以外にも芸術、学問、家族、趣味など、様々なものが、それぞれの人を支えています。

 


これらを求める権利も現代では人権として保護されているものではありますが、それぞれ人によって向ける態度が違っています。 ある人にとっては、音楽の活動にかかわるものが何よりも深刻で重要かもしれませんが、別の人にとっては家族との時間こそもっとも重要なものかもしれません。

 


そして、これらをまとめたものをその人にとっての倫理的なものと考えるというのが、第一の候補、深刻なもの、重要なものとしての倫理の理解です。

 


すなわち、その人にとってもっとも深刻で、 譲れないような何かが、その人にとっての倫理の基礎にあるものです。

 


それは生命や自尊心、人間関係、文化的生活など誰にでも当てはまりそうなものを中心にしつつも、人それぞれの個性に合わせた幅をもったものと考えられます。

 


そして典型的には、それら深刻で重要なもののどれかが脅かされそうなとき、「それは本当に倫理的に許されるものか」という倫理の問題が立ち上がります。

 


さて、こうした側面から倫理とは何かという問題を考えた倫理学者の一人に、1920年生まれのイギリスの哲学者、フィリッパ・フット(1920‐2010)がいます。

 


オックスフォード大学で教鞭をとり、哲学や倫理学において多大な功績を残した研究者です。数年、前にマイケル・サンデル教授の白熱教室以来、すっかり有名になってしまった「トロリー問

題(トロッコ問題)」を案出した人物でもあります。

 


フットは The Philosopher's Defence of Morality (1952) という論文において、次のよう

に述べました。

 


ある判断が道徳的であるためには、まず、その判断が自分の制御できる範囲の事柄についてのものでなければならない。

 


つまり、私たちにはどうしようもないことでは

なく、私たちが自分の意志で変えることができるようなものにかかわるのが、道徳判断である、ということです。

 


たとえば、「今日はよい天気だ、毎日こんな天気であるべきだね」などという場合、いくら「よい」とか「べき」 とかの語を使っていたとしても、天気は私たちの能力のうちにあるものごとではないので、これは道徳的な発言ではないということになります。

 


「人に親切にするのは良いことだ。毎日、人に親切にするべきだね」などのように、道徳的な語は少なくとも、私たちの制御できることである必要があります。

 


次に、その判断は、真剣さと優先権をともなったものでなくてはなりません。

 


つまり、フットに言わせれば、どれだけその問題が真剣なものか、どれだけ優先されねばならないような問題か、ということが、ある判断が道徳判断であるかの判定基準になります。

 


その意味では、その判断の中に何が含まれているかということ自体は、予め決められたものにはなりません。

 


人によって真剣な問題というのは違います。

 


私にとっては真剣な道徳の問題なのに、彼らにとってはそうではない。あるいはその逆で、私にとっては道徳の問題ではないけれど、彼らにとってはそうなのだ。こうしたことは現実にあり得るように思えます。

 


ここがずれていると、一方が道徳的に不当な扱いを受けたと感じ、真剣に傷ついたり、憤慨したりしたときに、他方からは「え、なんでそんなに悲しんでいるの?」「そんなに怒るほどのこと?」とか、「放っておけばいい、言わせておけばいい話じゃない?」などという反応しか得られず、両者の間に深い溝が生じることになってしまいます。

 


もちろん、どんなものが深刻で重要なものになり得るか、については、限界があると考えることもできます。

 


入院している親友をお見舞いに行くことよりも、窓際のパセリの鉢に水をやることの方が重要だと考える人は、何が本当に重要であるかを見失っている、とも考えられます。

 


基本的には、重要で真剣なものというのは、まずは本人が決めることだと考えられますが、全部が全部そうだとは言い切れません。

 


実際、様々なハラスメントや差別の文脈などでは特に、この問題が生じることが多くなります。

 


性的な事柄や人種にかかわる事柄などでは、ある発言について、特に権力を持った側、マジョリティの側の人から、自分はまったく気にならないし、実際に自分がそういった発言をされてもまったく構わないし、何をそんなに過剰に騒いでいるのか分からないという発言がしばしばなされます。

 


しかし、被害にあった側からすると、それは自分のアイデンティティにかかわる重要な事柄であり、それを軽々に扱われたり、侮蔑的に扱われたりすることは、とても耐えがたいこことがあるのです。

 


このとき、マジョリティの側は本当に大事なものを見落としている、という先の「動物の肉を食べることはやめるべきではないだろうか」という発言は、動物の肉を食べることが私たち人間と動物にとって重要で深刻で、他よりも優先しなければならない何かにかかわっていると考えられるなら、倫理を問題にしているということになります。

 


感想

 


「深刻さ」や「重要性」はたしかに「倫理的」「道徳的」にする要素になると思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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