とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

倫理の客観性問題

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


なぜ客観的な正解が存在しないと(誤って)考えてしまうのか

 


文化相対主義

 


レイチェルズによれば、マッキーのような人たちが客観的な答えの存在を否定したくなってしまうことの第一の理由は、文化相対主義にあります。

 


実際、周囲の国々を見回してみれば、私たちが正しいと思っていることが、他の文化では通用するとは限らない、ということは容易に理解することができるでしょう。

 


一夫一婦制の文化もあれば、一夫多妻制の文化も

あり、遺体を火葬する文化もあれば、土葬する文化もあります。名誉殺人を容認する文化、特定の生まれの人を差別することを許容する文化もあります。

 


こうした事実を考えると、倫理の問題に正解などなく、それぞれの人々が信じていることがあるだけだ、と言いたくなってしまうのも当然だ、とレイチェルズは述べます。

 


しかしながら、こうした考えは間違いである、とレイチェルズは主張します。

 


彼の考えでは、文化によって倫理が違うことは、倫理の問題に客観的な正解がないことを意味しません。

 


その理由は二つあります。

 


第一に、一般に唯一の真理があると思われているような領域の事柄、たとえば科学的な事柄であっても文化による差異は見られるからです。

 


「いくつかの文化においては、地球は平らであると信じられているし、別の文化では、病は悪霊によって引き起こされると信じられている。だが、それをもってわれわれは、地理や医療に真理はないと結論づけたりはしない。代わりに、いくつかの文化においては、人々は正しい知識を持っていないという結論を出すだろう」(『倫理学に答えはあるか』5頁)。

 


したがって、レイチェルズによれば、倫理における意見の相違は、単に、どちらかが間違っていることを示している、ということになります。

 


「仮に倫理上の真理が存在するとしても、すべての人がそれを知っているに違いないとなぜ思うべきなのか」(同書)と彼は述べます。

 


奴隷制を容認している国の人々は真理を知らず、間違った倫理を持っているのです。

 


第二に、文化によって異なる二つの倫理があるとして、しかもどちらも間違っていないのだとしても、それはそれぞれの地域において、異なる事情、異なる理由があることを示しているに過ぎません。

 


たとえば、湿度が高く遺体が腐りやすい地域では、土葬よりも火葬が好まれたかもしれません。

 


一夫多妻制と一夫一婦制は、前者が女性差別などに基づくものでないとすれば、男女の数の問題に解消されるかもしれません。

 


これらの文化の違いは「結婚制度はどうあるべきか」という問いに答えがないことを示しているのではなく、「Aのような風土、歴史、社会制度を背景にするなら、結婚制度はどうあるべきか」と「Bのような風土、歴史、社会制度を背景にするなら、結婚制度はどうあるべきか」という別々の問いに、別々の正解が与えられているに過ぎないというわけです。

 


そのため、「Aのような風土、歴史、社会制度を背景にする場合には一夫一婦制を、Bのような風土、歴史、社会制度を背景にする場合には一夫多妻制を採用することが正しい」ということは事実であり得ます。

 


その意味で、文化の違いは、倫理の問題に客観的な正解がないことを示すものとは言い切れないのです。

 


感想

 


レイチェルズの見方は、ぼくには説得力に欠けているように思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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