こんにちは。冨樫純です。
独学で、倫理学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
見方としての倫理
倫理や道徳の理解の最後の候補は、「見方」としての道徳という考え方です。
この考え方は、世界のなかに倫理があるのではなく、私たちが世界を見るその仕方のことこそ、私たちの倫理なのだ、と主張します。
これもまた今まで以上に分かりにくいものなので、まずは簡単に説明をしておきます。
一般的な倫理のモデルは、選択のモデル、もっと言うとショッピングのモデルと言うことができます。
たとえば、ティーカップを買いにお店に行ったとしましょう。 そこには様々なメーカー製の色とりどりのティーカップが並んでいます。
そのなかのどれかは買うと満足度が高い正解の商品です。
私たちは、どうにかしてその正解の商品を買おうとして、いろいろな情報を集めます。このカップは装飾が美しい。こちらのカップは軽くて持ちやすそうだ。値段のわりに作りがしっかりしている。
なるべく客観的な視点から商品を眺め、様々な事項を考慮した挙げ句、もっとも価値がありそうなものを、えいやっと購入するわけです。
そして実際に高い価値の商品を選ぶことができる人は、目利き、センスがある、として他人からも賞賛されます。
道徳も同じです。目の前にいくつかの行為の選択肢があり、そのうちのどれかがもっとも道徳的に価値のあるもの、すなわち (重要である、理想的である、良い意図に基づくなどの意味で)正解の行為です。
様々な事項を考慮した挙げ句、正解の行為を選べたなら、あなたは道徳的に優れた人というわけです。
それに対して、見方の倫理はまったく異なるモデルを提示します。 ある日、家の食器棚のなかに一客のティーカップを見つけたとしましょう。
どこのメーカーのものかなんてわからない、少し色あせたティーカップです。おそらくは祖父が買ったまましまいこんだものでしょう。
あなたは生前の祖父と折り合いが悪かったことなどを思い出して苦々しい気分になります。そして、ティーカップ自体もまた汚い、可愛くない、流行遅れの型をしているといって、不満に思います。
しかし、その忌々しいティーカップを毎日眺めるなかで、 少しずつ気持ちが変わってきます。 欠けた部分は愛嬌に、色あせた部分は味だと思えてきたのです。
そうすると少しずつティーカップの細かな造形にも目が行くようになってきます。確かに少々古臭い形ですが、ユニークとも言えます。素直に眺めてみることで、ティーカップの本来の形に気づくことができるようになったのです。
それはさらに、嫌なところばかりではなく、良いところもあった、として祖父の思い出と誠実に向き合う縁になるかもしれません。
このとき、あなたはずっと別のカップを使い続けていて、その古いティーカップを使うことはなかったとしましょう。
つまり、あなたの選択は何も変わらず、その内面の変化は誰にも知られることがありません。しかし、それでもあなたは確かに成長したと言える、とこの倫理のモデルでは考えます。
ですが、その成長は目利きとしてではありません。 客観的に見れば、そのティーカップは依然として、ただの古い汚れたティーカップですし、二束三文でしか売れないでしょう。
あなたはティーカップのなかにもともとあった客観的な価値、すなわち正解を発見したのではないのです。
そうではなく、ティーカップについてのあなたの内心の見方、ティーカップとの向き合い方が少しだけ変わったのであり、その結果としてティーカップの見え方が変わったのです。
そして、そのことこそ正解を選ぶことよりずっと重要なのです。
これを道徳の問題に適用すると次のようになります。これまでの考え方では、倫理や道徳は身の回りのもののなかの正解に存し、それを選び出すことが求められていました。
いくつ正解を選ぶことができたか、どれだけ正解ポイントを取得したかによって、あなたは評価されます。
それは重要性基準であれ、理想像基準であれ同様です。重要なものをいくつ選べたか、理想につながるものをいくつ選べたか。それによって倫理的に優れているかどうかは評価されることになるのです。
しかし、見方の倫理というモデルでは、道徳や倫理は選択よりももっとずっと手前にあります。 道徳や倫理とはむしろ、身の回りのひとつひとつのものに向けるまなざしであり、世界の見方そのものです。
感想
少しわかりにくいですが、正解のない道徳だとぼくは理解しました。
道徳的なことにも正解があることに気づかされました。
下記の本を参考にしました
『「倫理の問題」とはなにか』
メタ倫理学から考える
佐藤岳詩著