とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

倫理的とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


人の理想像としての倫理

 


さて、倫理・道徳の理解の二つ目の候補は、「人としての理想的な在り方を勧めるもの」というものです。

 


簡単に言うと、倫理や道徳というのは、私たちが人としてどう生きていくか、についてのガイドとなるようなものだという考え方です。

 


こうした考えは、古代ギリシアの時代から「有徳な人」という仕方で描きだされることが多かったように思います。

 


彼らはそれぞれに徳を持った人、すなわち様々な面で卓越した人間の像を思い浮かべ、そうした人を参考にして幸福に至る道を探究するよう説きました。

 


人々は自分たちの進むべき道に迷ったときに、倫理の問いを立て、「人はいかに生きるべきか」を問うてきました(こうした考え方は、人間性の完成を目指すというもので、完成主義と言われることもあります)。

 


理想像基準

 


私たちにとっての理想像を示すものが倫理・道徳。 理想に近づくことが倫理的に優れたことであり、その逆が倫理的に劣ったことである。

 


さて、再び時代は20世紀半ばのオックスフォードです。 そこにはフットを含めて多くの優れた哲学者、倫理学者がいましたが、フットの一つ歳上にリチャード・マーヴィン・ヘア

(1919-2002) という人物がいました。

 


20世紀後半の英米圏の倫理学にもっとも大きな影響を与えた人物の一人とも言われる哲学者です。

 


第二次世界大戦に従軍して、各地を転戦、最後は日本軍の捕虜となったという経験もあり、生涯、個人の自由と理性的な自律についての研究を行いました。

 


フットとは何度も激しい論争を繰り広げており、二人の論文にはしばしば相手に対する厳しい批判が書かれています。

 


とはいえ、ヘアもまず、確かに道徳はたいてい私たちにとって重要で深刻なものでることを認めます。

 


特に道徳についての意見が衝突したときに、これは各人の趣味みたいなものだから、これ以上、言い争いをするのはやめて、あとは人それぞれということにしようなどと言えるものではない、と述べています。

 


重要なものだからこそ、私たちはしっかりと議論して、これからどうしていくべきかを決めていく必要があるというわけです。

 


ヘアがここで指摘しているのは、フットの言うように中身を度外視して、重要性だけで、ある問題が道徳の問題かどうかを判定するのなら、普通は道徳の問題ではないと考えられている事柄まで、道徳の問題になってしまうだろう、ということです。

 


実際、家庭のキッチンにおける包丁や鍋、フライパンの配置は、極めて深刻な問題を引き起こし得ますが、これは道徳の問題というにはやはり語弊があるようにも感じます。

 


では、ヘア自身は道徳の問題とそれ以外の問題をどのように区別したのでしょうか。

 


それを考えるためには、私たちはなぜ日常の中で「良い」「正しい」 「~してはならない」などと

述べるのかを考える必要があります。

 


たとえば、私たちはどうして友人に「この前行ったレストラン、すごく良かったよ」「あのメーカーの化粧品を買ってはならない」などと言うの

でしょうか。

 


皮肉や一般論を述べている場面などを除けば、何かが良いとか、何かが正しいとか、言う場合、私たちは基本的にはその対象を勧めていることがほとんどです。

 


たとえば、「こちらの方が良いボールペンだ」「こちらが正しい計算方法だよ」「こちらの道は危ないから進んではならない」などと判断する場合を考えてみれば、それは明らかでしょう。

 


「あのレストラン、良かったよ」と判断する場合には、機会があれば行ってみること をお勧めしており、場合によっては、一緒に行こうというお誘いですらあるかもしれません。

 


しかし、これらはあくまで「良い」や「正しい」といった言葉全般の用法です。 「正しい計算方法」や「良いレストラン」で言われているのはおそらく道徳的な意味での「良さ」ではないでしょう。

 


そこでヘアは、こう付け加えます。確かに、勧めという要素だけでは、打算的な判断など、 その他の判断から道徳的な判断を区別することはできない。

 


しかし、道徳判断には、別の要素がある。それは、どんな文脈で何を勧めるか、ということだ。

 


そして道徳の場合には「なろうとしている人」を勧めるのだ、とヘアは述べます。

 


たとえば「多少疲れているときでも、道に迷っている人を助けてあげることは良いことだ」という場合、私たちはそのように案内をしてあげるような人になることを勧めています。

 


あるいは道徳的な意味で誰かに「嘘をついてはならない」というとき、私たちは嘘をつくような人にならないことを勧めています。

 


簡単にまとめておくと、フットはある事柄が道徳の事柄であるかどうかは、それが本人の力のおよぶ範囲にあり、かつ深刻で重大であるかどうかによって決まると述べました。

 


それに対し、ヘアは深刻で重大だからといって道徳の事柄とは限らないと言ってフットの考えを批

判し、むしろその中身として人としての理想を示すものが道徳であると主張しました。

 


感想

 


たしかに、道徳には「なろうとしている人」を勧める面はあると思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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