とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

吉田茂の対応

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、政治学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


吉田茂の対応

 


戦後に日本側で対応を指揮していたのが、吉田茂である。

 


1946年から47年までの第1次吉田内閣においては総理大臣として国会の憲法審議に臨み、公布から施行までを最高責任者として見守っていた。

 


片山、芦田両政権をはさみ再び政権に復帰した後の彼の課題は、講和条約および安全保障条約を締結することであった。

 


1950年から51年にかけての交渉において、他ならぬアメリカが、吉田総理大臣に対して再軍備を強く求めた。

 


朝鮮戦争が行われていたころである。吉田はこの要求を断った。 さらには独立後において芦田均鳩山一郎憲法を改正して、 正式な軍隊をもつことを主張したときにも、これに抵抗した。

 


このようなときどきの政策決定の中で1つの方針がうまれていった。 高坂正堯によるとそれは、(1) アメリカとの同盟関係を基本とし、それによって安全を保障する、(2) したがって、自国の防衛費は低く抑える、(3) そうして得られた余力を経済活動にあて、通商国家になることに活路を求める。

 


この方針は後に、吉田ドクトリンと呼ばれるようにもなった。

 


こうして1951年にサンフランシスコ講和条約日米安保条約が締結され、翌年日本は独立を回復すると同時に、アメリカと同盟関係を結ぶこととなった。

 


その後改定された現在の安保条約は、日本が武力で攻撃された場合、アメリカが日本を防衛する義務を明記する一方で、日本の安全、ならびに 「極東」の平和のためにアメリカが基地を使用することを認めたのである。

 


こうした経緯で日本に米軍の基地が置かれるようになった。 アメリカは、厳しい冷戦の中で極東に基地を確保し、使用することがで

 


日米の同盟関係によってソ連が日本を攻撃しにくくすることが目的であった。 日本もまた陸上・海上航空自衛隊を設け自衛力を拡充していった。

 


このような日本の外交方針は、現在から見ると必然であったと思われるかもしれない。

 


しかしながら、必ずしもそうではなかった。

 


日本の国内政治においては、吉田の方針に対して、 左 (革新) の勢力と右(保守) の勢力の両方がこれを攻撃した。

 


一方では、平和憲法の精神を第一に考える日本社会党とその支持勢力は、中立政策こそが日本の安全を保障すると説いた。

 


彼らにすれば、日米安保条約は日本をアメリカに隷属させるものにほかならなかった。 アメリカとの同盟関係こそが戦争に巻き込まれる原因であり、さらに自衛隊は明確に違憲の存在であった。

 


安保廃棄、自衛隊の解体が彼らの主張であった。

 


他方では、より右側の立場、よりナショナリスティックな立場をとる勢力が、そもそも日本国憲法自体に異義を唱えた。

 


この憲法は英語から直訳された占領軍の押しつけ憲法であり、改憲、あるいは自主憲法を制定することが望ましい、主権国家として自衛権を有するのは当然のことであり、自衛隊としてではなく、正式の軍隊をもつべきであると主張した。

 


さらに彼らもまた、対米依存を批判し、より自主的な外交路線を提唱した。

 


軍事力という観点からは社会党などとは正反対の志向を有するものの、この点では、左右の勢力は

ともに、吉田の対米協調路線に反対を唱えていた。

 


感想

 


日本に米軍の基地が置かれるようになった経緯は理解しましたが、それがよかったのかどうかは難しい問題だと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『はじめて出会う政治学

 構造改革の向こうに

 北山 俊哉 他2名

 有斐閣アルマ

 

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